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年号/元号

漢の武帝の時(前113年)に、即位の翌年の西暦紀元前140年に遡って、初めて「建元」の元年とした。それ以後、中国では皇帝政治とともに続いた。多くは祥瑞の出現などで改元されていたが、明の洪武帝の時以降、皇帝の代替わりで改元する一世一元の制となった。日本などの周辺諸国でも用いられた。

 年号は正しくは元号といい、武帝が紀元前113年に、即位した紀元前140年にさかのぼってその翌年を「建元」として年号を建て、元年としたのに始まる紀年法(年代を数える方法)である。それ以後、中国の各王朝の皇帝は、祥瑞(めでたいしるし)が現れたり、災難が起こったりすると、年号を改めた。それを改元という。改元は皇帝の専決事項で、皇帝が天命を受けて世を支配していることを示すことであった。中国の周辺のアジア諸国も、国家の形成とともに年号(元号)を制定した。年号を立てることは独立国家であることを表明することであったので、逆に中国の王朝に服属すると、独自の年号をやめ、中国王朝の年号を用いたわけである。
 日本では、645年の大化改新の時の「大化」が正式な年号の最初である。

漢の武帝の年号制定

 武帝は前141年の即位以来、匈奴の制圧に成功し、その統治を強固なものにしていったが、次第に神仙思想に関心を強め、儒者よりも神仙術を体得していると称する術者を近くに置くようになっていった。前115年には神仙と通じるために未央宮(武帝が長安に設けた宮殿、びおうきゅう)のかたわらに高さ115mの台を作り、高さ46mの神仙像のさし上げた手は承露盤をささえ、武帝が飲むための天露が集められた。そして、前113年には、一角獣を獲たこと、宝鼎が発掘されたことなどを祥瑞(おめでたいしるし)としてそれ以前の年号を、前140年に遡って建元(140bc~135bc)元年とし、それ以後を元光(134bc~129bc)、元朔(128bc~123bc)、元狩(122bc~117bc)、元鼎(116bc~)と定めた。前113年は元鼎4年とされた。
 神仙を求める武帝の仕上げは、秦の始皇帝以来とされる泰山に登って行う「封禅」の儀式だけとなり、前110年4月にそれを実行した。その6年後の前104年、年号を太初元年と改め、この年から暦法を改めて正月を歳の初めとする太初暦を採用した。それらはいずれも神仙思想と結びついていた陰陽五行説などに基づいたものであった。太初暦は前漢末に増補されて三統暦となる。<西嶋定生『秦漢帝国』1997 講談社学術文庫 p.275,278> → 中国の暦法

明の一世一代の制

 中国では明の太祖洪武帝1368年一世一元の制(皇帝一代に一つの年号)を定め、皇帝在位中の改元は行わなくなった。日本でも明治天皇から一世一元の制となった。年号(元号)は本家の中国では清王朝の滅亡(1912年)以後使用されなくなり、他のアジア諸国でもなくなったが、現在日本のみは依然として使用し、しかも「元号法」(1979年に制定)まで制定し、一世一元の制を守ろうとしている。

参考 新元号「令和」に関連して

 近代日本で始めて、天皇が退位し、新天皇が即位、それに伴って2019年4月1日、年号が「令和」となった。この新年号は、菅官房長官が日本の古典の『万葉集』を出典としてあげたことから、それまでの日本の年号が中国の古典にその典拠としていたことにたいして、「脱中国」をはかったのだろうと論評された。さすが「美しい日本」をキャッチフレーズにしている安倍首相だ、という称賛の一方、ナショナリズムを過度に煽る雰囲気に違和感を感じたという声もあった。
 そんな中、「令和」の典拠を巡って、明大教授加藤徹さんが冷静に解説し、様々な誤解を解いているので紹介しよう。論点は多岐にわたるが、世界史との関わりで興味深い点は次の二点。
  • 新元号「令和」は脱中国化を象徴していると捉えるのは誤っている。日本は独自元号「大化」以来、脱中国化している。中国の皇帝から冊封を受けた国は、朝鮮半島の諸王朝がそうであったように、皇帝を名乗れず「王」にとどまると共に元号も独自のものを制定できないので中国の元号を使っていた(このことを「正朔を奉じる」という)。ところが日本は聖徳太子以来、中国王朝からの冊封をうけず、琉球などの一部の例外を除いて大化以来、独自の元号を使用してきた。令和という和風の元号にしたことで脱中国とはいえない。ただし、独自元号を用いたといっても、文化的先進国であった中国から学ぶことは多かったので、その典拠は中国古典、つまり漢文に求めた(古代日本には自国の古典はまだ無いのだから当然であるが)。<このことは世界史で冊封体制を学習すれば理解できる。卑弥呼や倭の五王は冊封を受けていた。>
  • 日本の古典を典拠としているからナショナリズムに満ちている、と捉えるのも間違っている。 実は典拠とされた『万葉集』の「梅の花の歌三十二首」の序文「初春の令月(れいげつ)にして、気淑(きよ)く風和(やわら)ぎ、梅は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香を薫(かお)らす」という文は漢文で書かれており、『文選』に取り上げられた後漢の文人張衡(ちょうこう 78年-139年)の韻文作品「帰田賦」の「仲春令月、時和気清」(仲春の令月、時は和し気は清し)をふまえている。しかし、万葉集が張衡をパクったとは言えない。張衡の文も『儀礼』や『礼記』、『楚辞』等を踏まえている。古典とはそういうものなのだ。万葉歌人が集った太宰府の政庁では、漢文が国際共通語として通用し、使われているのであり、ナショナリズムとは無縁な、「おおらかな」国際感覚が当たり前だった。<遣唐使や遣渤海使、あるいは新羅や渤海からの使節の来航を知っていれば、古代においても政治的には対立しながら文化受容にも日本がいかに積極的だったかを思い起こすことが出来る。>
 アジアでは本家の中国でも使われなくなってしまった元号。それが21世紀の日本に生き残り、政府が敢えて万葉集からとったという新年号「令和」とされたことを、世界史的に見ることができると言うことであろう。ところでここで出てきた後漢の張衡は、文人としてよりも世界最初の地震予知装置を発明したことで知られる科学者でもあった。 → 張衡の項参照
※なお、加藤徹さんのネット上の解説の存在は代々木ゼミナール教材研究センターの越田さんにご教示いただいた。ありがとうございます。
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