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烏孫

トルコ系と思われる中央アジアの遊牧民。イリ川上流の大月氏を追い、匈奴とも対抗。前119年、漢は張騫を派遣し、対匈奴作戦での提携を探った。

 烏孫(うそん)はトルコ系民族と考えられている中央アジアの遊牧民。漢代には天山山脈の北方にいた西域諸国のひとつであった。匈奴とも争ったが次第に押され、イリ川上流域に移動、同じく匈奴に追われて甘粛からこの地に移っていた大月氏を追って、その地を支配した。現在は、ほぼキルギス共和国の東部にあたる。 → 烏孫のおおよその一はこちらの地図を参照

張騫の来訪

 武帝は積極的な匈奴制圧策を展開、まず張騫をパミール高原の西の大月氏国に派遣し、匈奴を挟撃しようとした。しかし大月氏がそれに応じなかったため、この作戦は実現しなかった。
 その後も匈奴に対する攻勢を強めていた武帝に対し、張騫は前の旅行で知った烏孫との提携の可能性があることを武帝に提唱、それを受けて前119年に張騫が烏孫に派遣された。これは張騫の第二回目の西方への大旅行だった。
 烏孫はもと匈奴に所属していたが、その王の昆莫(こんぴ)は匈奴のために父を殺され、現在は服属していないから、これを漢帝国に降伏した匈奴の渾邪王の故地に招き、漢と兄弟の約束をして匈奴の右手を断つならば、匈奴を苦境に陥れることができ、それによって大夏などの西域諸国も漢に従うだろう、というのが張騫の見込みだった。
 張騫は一行三百人を率いて出発、行軍のための馬は一人あたり二頭ずつ、途中の食料とすべき牛や羊は数万匹、烏孫王などへの贈り物として金銀布帛を携えて烏孫に向かった。途中、匈奴に妨害されることもなく烏孫国に到達し、交渉に入ったが、話はまとまらなかった。烏孫王はこの時すでに老齢であり、その国内も若くして死んだ太子の子と太子の弟とに勢力が三分され、政情不安であり、また匈奴の強国であることは知っていても、漢については何も知らないからであった。
 烏孫との提携を断念した張騫は、周辺の大宛、康居、大月氏、大夏、安息(パルティア)、身毒、于闐などに副使を派遣した後、烏孫の使者数十人、馬数十頭などを漢に送った。前115年、張騫は長安に帰国し、その三年後に死去した。<西嶋定生『秦漢帝国』講談社学術文庫 p.226-228>

Episode 烏孫王に嫁いだ公主

 張騫が開いた烏孫との関係を強めるため、漢は匈奴と同じように王女を送って婚姻関係を結ぶこととした。烏孫王昆莫が1000頭の馬を献じ、漢の公主(王女)を貰いたいと申し出てきたので、今回は江都王の娘を選び烏孫王の許に嫁入りさせることにした。名前は細君と伝えられており、父王は謀叛を企てた疑いで自殺していたので、断ることはできなかった。細君の輿入れは行装きらびやかに、河西回廊を西に向かい玉門関で出て天山山脈北方をめざした。若い細君を迎えたその夫となるべき烏孫王は白髪の老人だった。若い頃、匈奴から独立して国を建てたほどの人物であったが、すでにその面影は無かった。右夫人となった若い公主は、漢から時折やって来る使節に歌を詠んで故郷に託した。
 わたしの仕えているのは/異国烏孫の王さま。
 まん丸い家、獣の皮の壁。
 食べるのは生のお肉/すするのは饐(す)えたお乳。
 明けても暮れても/悲しみで心は痛み、
 思い出されて来るのは/故郷のことばかり。
 ああ、鵠(おおとり)になりたい。
 ああ、あの黄色い鵠になれたら、高い高い空を飛んで、
 夢にも忘れない故郷に帰れましょうに。
 まもなく烏孫王は匈奴が送ってきた女性を左夫人とし、右夫人は孫の岑娶(しんしゅ)の妻とされた。夫をとりかえることは漢民族の道徳観からは許せなかったが、遊牧民世界では一般的なことで、兄の妻を弟が妻とすることは文化人類学ではレヴィレート婚といわれている。細君は新しい夫との間に皇子を一人産み、故郷に帰ること亡く烏孫の地で亡くなった。<細君の歌の和訳は井上靖『西域物語』新潮文庫 p.49-51 による>

その後の烏孫

 烏孫は漢との軍事同盟を結ぶことこそしなかったが、その後の漢の西域進出を助けた。しかしその後の動向はよくわかっておらず、5世紀に柔然に追われてパミール高原の西に逃れたらしい。その後の消息は分かっていない。
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書籍案内

井上靖
『西域物語』
1977 新潮文庫

物語と言ってもフィクションではない。1960年代後半に実際に現地を訪れ、歴史を織り交ぜた紀行文。日本の西域ブームの火付け役だった。