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大秦景教流行中国碑

中国の唐代にネストリウス派キリスト教(景教)の隆盛を示す碑文。西安の碑林博物館に所蔵されている。

大秦景教流行中国碑
大秦景教流行中国碑
 唐の都長安に残る石碑で、碑文によって景教が長安で布教されていたことを示す貴重な記録となっている。景教とはキリスト教の一派のネストリウス派のことであり、431年のエフェソス公会議で異端とされてローマ領内での布教を禁止されたため、東方に広まっていた。
 大秦景教流行中国碑は、781年(徳宗の建中二年)、長安の大秦寺の僧景浄が大秦寺境内に建造した。大秦寺とは景教寺院のこと。その後、景教は衰微し、大秦寺も荒廃したため、長く忘れ去れたが明代に西安の崇聖寺で発見され、ヨーロッパに紹介され、唐代に中国でキリスト教の一派が存在したことが知られ、有名になった。

大秦景教流行中国碑の発見

 景教は中国では衰微し、その碑文も忘れ去られていたが、明代の1625年に当時中国に渡ってきたキリスト教徒の一人がこの碑を発見し、碑文中の古体シリア文字を翻訳してその摺本とともにローマに送った。その紹介は当時のキリスト教会、学術界を驚かせたが、偽物説も出され、長く論争が続いた。現在ではその文字などからみて唐代のものであることが明らかになっている。<桑原隲蔵『考史遊記』明治40年 2003 岩波文庫 p.83-86>

Episode 石碑流出の危機

 明治40年、中国を旅した東洋学者桑原隲蔵(京都大学教授)は、西安滞在中の9月26日にこの石碑を崇聖寺に見に行き、その記録を残している(上掲)。ところで、一般に石碑は亀の姿をした石の上に置かれている。これを贔屓(ひいき)という。贔屓とは大亀のことで、大亀は重いものを負うのを好むところから、その石を贔屓と呼ぶ。俗に、特定の人を扶助することを、下から支えてることなので石碑の贔屓のようだということから「ひいき」といようになった。さて、桑原は10月4日夕方、見覚えのある大きな贔屓が西安の街を曳かれていくのを目撃する。宿に帰って聞いたところ、先日ある外国人がこの碑文を見て、どうしても欲しくなり、買収してロンドンの博物館に転送しようとした。陝西省の役人がそれを探知して、急いで碑を碑林(西安市内の貴重な石碑を保管する場所)に移すことになった。さっきみたのはその贔屓を移しているところだった。さっそく翌々日碑林を訪ねたところ、たしかに碑文は移されていた。こうして貴重な碑文の流出は直前で免れた。この外国人はあきらめきれず、景教碑そっくりの石碑を偽造してロンドンに送ったという。<桑原隲蔵『考史遊記』明治40年 2003 岩波文庫 p.130,145>

日本にある大秦景教流行中国碑

高野山の大秦景教流行中国碑
高野山の大秦景教流行中国碑とゴルドン夫人の墓
 高野山の奥の院、無数の墓石が列んでいる中に、「大秦景教流行中国碑」が立っている。これは、中国の西安にある碑林博物館に所蔵されている実物を、そのまま写し取ったもので、イギリスの宗教学者であるエリザベス・ゴルドン夫人が明治末年に建てたものである。「唐代に都長安において、すでに景教が隆盛していたため、このころ中国に留学した弘法大師も、何らかの接触があったと夫人は考えて、異教も懐深く抱擁する大師の思想に共鳴し、みずから望んでこの碑の傍らに葬られ、静かに眠っている。」<松長有慶『高野山』2014 岩波新書 p.56>
 開山1200年にあたる2015年、4月27~28日に高野山を訪ねた。高野山の中心、壇上伽藍では金堂で初めて公開された高村光雲作の薬師如来を拝観、根本中堂や国宝不動堂などを見学。霊宝館では空海が明州(寧波)から日本に向けて投げ、それが高野山に届いたという「三鈷杵」も見た。宿坊は金剛三昧院、鎌倉時代に北条政子が退耕行勇を高野山に送り込んで、真言密教と臨済禅の兼修道場として創建された寺院で、なんと国宝の多宝塔が宿坊内にあった。そして奥の院で大師廟を拝んだ後、戦国時代から江戸時代の大名たちの豪勢な墓を急いで見て回り、ようやく大秦景教流行中国碑を見つけた。西安に行かなくとも見ることができたので好かった。
 なお、ゴルドン夫人が、前記の桑原隲蔵『考史遊記』にいう「ある外国人」なのかは判らない。彼女は比較宗教学者として知られ、女子教育者として知られる下田歌子にも影響を与えた。wikipedia の下田歌子の項の注に簡単な説明がある。
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書籍案内

桑原隲蔵
『考史遊記』明治40年
2003 岩波文庫

松長有慶
『高野山』
2014 岩波新書