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後周

中国の王朝で五代の5番目。都は汴州(開封)。

 951年、後漢の節度使郭威が建国。五代の中では後梁とこの後周のみが漢民族の王朝であり、他はトルコ系。都は同じく汴州に置いた。2代の世宗(初代郭威の養子となった柴栄)は仏教の弾圧(廃仏)を行い、財政改革に取り組み、契丹を破って燕雲十六州の一部を回復、全国統一一歩手前まで行き、五代第一の名君と言われる。しかし、960年に病死、その実子の恭帝が7歳で帝位に就いたが、将兵は遼との決戦を前に幼帝では不安を感じ、人望の篤かった武将の趙匡胤をかついで皇帝としが成立した。これが禅譲の形式の王朝交替の最後となった。 → 五代十国の争乱

Episode 皇帝一族の末裔、梁山泊に入る

 なお後周の柴氏が宋代でも前皇帝の家系として優遇されたという話は『水滸伝』に出てくる。梁山泊の英雄の一人柴進(さいしん)はその血筋だったという。柴進は梁山泊第十位の好漢で、あだ名は小旋風。以下は『水滸伝』の一節。「ご存じないかもしれないが、この村に、姓は柴(さい)、名は進(しん)、土地のものは柴大官人といい、世間では小旋風という名でとおっている大金持ちがおられる。この方は、大周(後周のこと)の柴世宗さまのご子孫で、柴世宗さまが陳橋(開封の城門付近)で位を(宋の太祖趙匡胤に)お譲りなさったとき、太祖武徳皇帝さまから賜ったお墨付が伝わっていて、みな畏れたてまつっているのだが、この柴進さまは天下往来の好漢をお世話することがなによりお好きで、家には四五十人も置いておられ、・・・面倒をみてやるといっておられる。(第一冊 第9回)」宋朝廷からもらったお墨付は「丹書鉄拳」といったが、あるとき佞臣の高廉の権力をかさにした知府(地方長官)によって強奪されてしまう。憤った柴進は梁山泊に入り、好漢の仲間となって活躍する(第四冊 第52回)。<『水滸伝』駒田信二訳 ちくま文庫>
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