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王建/太祖(高麗)

朝鮮の高麗を建国した人物。918年に高麗を建国、太祖とされる。936年までに新羅、後百済を併合して朝鮮を統一した。官制、地方制度を整備し高麗の基礎をつくった。

 王建、高麗の太祖(在位918~943年)は、新羅の末期に、反乱軍の首領弓裔(きゅうえい)の部下として頭角を現した。弓裔が地方政権(後高句麗)を樹立するとその首相格となった。弓裔が暴君化して支持をなくすとそれを追い、周囲から推されて918年に王位に就き、高麗を建国、開城を都(開京)とした。その国号は、王建が高句麗の後継国家と意識していたからであった。

朝鮮の統一

 935年には新羅王敬順が高麗に降ると、王建は新羅王の娘を妃として迎え、同時に新羅貴族の多くを高麗の官僚として登用した。これによって王建は新羅の王権の継承者としての権威も身に着けた。すでに926年には、渤海契丹に滅ぼされていたので、多くの渤海遺民が高麗に亡命すると、王建はそれらを保護するとともに官僚として役に立てた。
 さらに、936年には南西部にあった後百済を平定して朝鮮半島を統一した。一方で北西への進出をはかり、高句麗の旧都平壌(現在のピョンヤン)を回復、西京と改称した。このように、王建の建国した高麗は、統一新羅の領域を越え、ほぼ朝鮮半島全域を支配する統一国家となった。ただし、高麗の北部領土は鴨緑江までは達していなかった。また、王建は仏教を国教とし、高麗の国力の充実と文化の繁栄の基礎を築いた。在位943年まで。

参考 王建の遺訓

 王建は高麗王朝の安泰のために、十ヵ条からなる遺訓(訓要十条)を残した。その第八条には、高麗に最後まで抵抗した後百済のあった現在の全羅道に対して、その地域のものは「姦巧な言語をもって権勢を弄し、政事を混乱させ、災変を起こすので、たとえ良民といえども、それに相応する位に登用してはならない」と指示した。これは後百済が滅亡の時、父の甄萱(キョウヌウォン)に子の神剣王が反逆し、悲惨な末路となったことを念頭に置いているが、この地域を反逆の地域であるとして政事に参加させないという差別意識がここから生まれ、この全羅道への地域的な理不尽な差別意識は後にまで影響を及ぼしたという。<金両基『物語韓国の歴史』1989 中公新書 p.233>
開城 王建の墓

開城郊外の王建の墓
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書籍案内

金両基
『物語韓国史』
1982 中公新書