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日宋貿易

日本の平安から鎌倉にかけて行われた宋との貿易。

 894年の遣唐使廃止後も、九州沿岸の商人たちによる私貿易は続いていた。10世紀後半にが中国の統一を回復すると、中国・朝鮮の民間商人が盛んに来航して民間の交易はさらに増加し、宋からは大量の宋銭が輸入されるようになった。太宰府鴻臚館にかわって博多が中世都市として発展し始め、宋人の居留地もここにおかれて、多くの宋銭や陶磁器(白磁など)がもたらされ、また筑前、博多、薩摩などの商人の船団は寧波にまで渡った。しかし、中央の朝廷の貴族は、貿易や国際交流にはきわめて消極的であった。

南宋と日本

 12世紀に有力となった女真が金を建国し、華北・東北アジアに帝国を作ると、宋は1127年に江南に逃れて南宋を建国、金の圧力に抗しながら、海上での交易は盛んに行った。高麗も同じく金に圧迫されながら、1170年に武人政権を成立させた。この様な東アジアの変動の中で、日本では保元・平治の内乱を経て平氏政権が成立し、平清盛は1167年に太政大臣となった。

平清盛の日宋貿易

(引用)平氏の権力の基盤は西国に拡大し、瀬戸内海周辺の大半の諸国が知行国となり、摂津国福原(神戸市兵庫区)を拠点にして海港大輪田泊を修築、安芸国厳島神社を氏神として海上路を完全に抑えた。既に平氏は日宋貿易の基地、有明海に面する院領の肥前国神埼荘を知行していたほか、清盛は太宰府長官になって九州統治のかなめを押さえた。・・・清盛は、政情の不安な高麗は避けたものの、宋との貿易には熱心であった。1170年には、後白河法皇を福原の別荘に招いて宋人との面会を実現したほどであり、唐船や宋商人が福原や博多にさかんに渡来するようになった。<大江一道『地域からの世界史18・日本』朝日新聞社 p.88,94>
 宋からの輸入品:宋銭、香料、薬品、陶磁器、織物、絵画、書籍など。
 日本からの輸出品:金、銀、硫黄、水銀、真珠、工芸品(刀剣・漆器など)。
 金は奥州に産出する砂金が平泉と京都を結ぶルートで運ばれ、さらに宋に運ばれた。次の元の時代に、この話がマルコ=ポーロに伝えられ、『東方見聞録』の記事となった。

仏教での日宋関係

 仏教の歴史で見れば、最澄・空海以後も中国に渡った僧は多く、983年に宋に渡った奝然(ちょうねん)や、1072年に宋に入って天台山に学び、多数の経典を日本に送った上で、神宗に慰留されて宋にとどまり、汴京で死去した成尋(じょうじん)らが重要である。この間、仏教は日本古来の神々との習合を遂げ、本地垂迹説(日本の神々は仏が姿を変えてあらわれたと説く)として民衆の中に深く根を下ろすこととなった。

鎌倉時代の日宋関係

  鎌倉幕府も平氏政権の政策を継承した。宋から輸入されたものは唐物といわえて珍重された。特に大量に輸入された宋銭は依然として日本の基軸通貨として流通し、青磁・白磁の陶磁器の遺品と共に、鎌倉時代の遺跡から盛んに出土している。
 また、宋との交流のなかで多くの仏僧、画家などが渡航し、新しい仏教や学問、芸術をもたらした。僧侶の往来は特に活発で、禅宗では多くの僧が招かれ、鎌倉や京都に禅宗寺院を創建した。彼等によって宋代に発展した儒学の宋学(朱子学)も日本にもたらされ、禅宗寺院で盛んに研究された。 → 鎌倉仏教