方臘の乱
1120年、宋代の蘇州を中心に起こった農民反乱。朝廷の官邸費の膨張や遼との戦いのための防衛費のために、課税が重くなったことに対して浙江地方の農民が反発した。
宋(北宋)の末、1120年代には農民反乱が相次いだ。華北では宋江の乱、江南では方臘の乱が起こっている。方臘の乱は1120年、方臘という人物に率いられた、蘇州を中心とした浙江で起こった農民反乱で、後の『水滸伝』 のモデルとなったともいわれている。『水滸伝』にでてくる宋江ら36人の豪傑が山東省の梁山泊に集まり、宋朝に反旗を翻したという話にひろがっていった。
当時宋の徽宗(風流天子といわれた)は宮廷で贅沢な生活を送り、江南地方から銘木や珍石を集め楽しんでいたが、その徴発と運搬は農民の大きな負担となっていた。またそのころ、北方の遼の圧力が強まっており、防衛のために軍隊を差し向けていたため、その費用も農民の負担となっており、不満が高まっていた。そんなとき、一種の宗教秘密結社を作っていた方臘が反乱を起こすと、たちまち農民が同調して浙江省蘇州を中心に江南一帯の反乱となった。驚いた徽宗は、遼との戦争に備えていた15万の軍を反乱鎮圧に差し向け、また山東で反乱を起こしていた宋江を取り込んで、討伐軍に加えてようやく鎮圧した。
なお、方臘の乱の平定に参加した宋江と、『水滸伝』の主人公の宋江は別人との説もある。
当時宋の徽宗(風流天子といわれた)は宮廷で贅沢な生活を送り、江南地方から銘木や珍石を集め楽しんでいたが、その徴発と運搬は農民の大きな負担となっていた。またそのころ、北方の遼の圧力が強まっており、防衛のために軍隊を差し向けていたため、その費用も農民の負担となっており、不満が高まっていた。そんなとき、一種の宗教秘密結社を作っていた方臘が反乱を起こすと、たちまち農民が同調して浙江省蘇州を中心に江南一帯の反乱となった。驚いた徽宗は、遼との戦争に備えていた15万の軍を反乱鎮圧に差し向け、また山東で反乱を起こしていた宋江を取り込んで、討伐軍に加えてようやく鎮圧した。
Episode カルト教団の教祖 方臘
方臘という人物は、「喫茶魔事」という菜食して魔に仕える教団の首領であった。この教徒は肉食せず、神仏を拝まず、ただ日月を拝して真仏としており、「平等をむねとして、高下あることなし」という平等思想をもっていた。しかし、その教祖方臘は魔王、これを助けるものを魔母といって教徒は銭を献げて焼香していた。また人生は苦であるから、人を殺すのはその苦を救うことになので、これを度人といい、度人が多ければ成仏できるなどと説いていた。<周藤吉之/中嶋敏『五代と宋の興亡』1974 講談社学術文庫 p.318>なお、方臘の乱の平定に参加した宋江と、『水滸伝』の主人公の宋江は別人との説もある。