マワーリー
イスラーム帝国での非アラブ人でイスラーム教に改宗した人びと。ウマイヤ朝のもとでは改宗しても課税されたので不満が強まり、アッバース朝への転換の一因となった。
イスラーム帝国に組み込まれた非アラブ人で、イスラーム教に改宗した人々(新改宗者)をいう。ウマイヤ朝においては同じイスラーム教徒でありながら、人頭税(ジズヤ)と地租(ハラージュ)などの税を負担しなければならず、負担が大きかった。彼らは、ウマイヤ朝の支配に対立したシーア派と結びついて、反体制運動を起こすようになり、ウマイヤ朝に代わるアッバース朝の出現をもたらした。アッバース朝の税制の変更で、マワーリーはジズヤを免除されてハラージュのみを納めるようになり、アラブ人もハラージュは同じように義務となったので、イスラーム教徒であればアラブ人と非アラブ人の違いはなくなった。なお、非アラブ人でイスラーム教に改宗しなかったユダヤ教徒、キリスト教徒らはジンミー(ズィンミー)と言われた。
ウマイヤ家の諸侯はそれぞれ大地主だったが、なかには領有地の開発に熱意を持った者もいた。彼らアラブ人は征服地で支配層を形成し、カリフも諸侯は都会でも農村でも豪勢な暮らしをしており、兵士と官吏は現金並びに現物で俸給(アター)を受け取った。初期カリフ時代からペルシア、ビザンツの政府から引き継いだ造幣所で金貨・銀貨を鋳造していた。( ⇒ イスラームの貨幣経済)
マワーリーの不満増大
アラブ人のイスラーム教勢力は正統カリフ時代からウマイヤ朝にかけて積極的な征服活動を行ったが、征服地で定住したアラブ人は土着の人口に比べれば少数派だった。その正確な数字は分からないが、ウマイヤ朝の時代のシリアとパレスチナでは約25万人と推定できる。征服地のアラブ人の大半は軍人・官吏・その他の町民またはベドウィンで、農村地帯ではそれ以前から定着して地主となっている者もいた。エジプトに定着したアラブ農民はウマイヤ朝末期の資料では3千人となっている。ウマイヤ家の諸侯はそれぞれ大地主だったが、なかには領有地の開発に熱意を持った者もいた。彼らアラブ人は征服地で支配層を形成し、カリフも諸侯は都会でも農村でも豪勢な暮らしをしており、兵士と官吏は現金並びに現物で俸給(アター)を受け取った。初期カリフ時代からペルシア、ビザンツの政府から引き継いだ造幣所で金貨・銀貨を鋳造していた。( ⇒ イスラームの貨幣経済)
(引用)アラブ支配階級が厖大な金品を奔放に使うので、新興階級マワーリー(単数はマウラー)が成長した。回教徒ではあるが、系譜のうえからアラブ部族の正式成員たる資格のない者のことである。マワーリーのなかには、それゆえ、支配階級の正式成員たる資格を何らかの理由で失ったり、とりそこねたりしたアラビア語を母語とする者や、一部のアラブ出身者とペルシア人・アルメニア人・エジプト人・ベルベル人、その他非アラブ諸民族で回教に改宗したものがふくまれていた。この用語には、回教国家の寛容政策による保護を受けた宗教の信者たち、つまりディンミーをふくまない。<バーナード・ルイス/林武・山上元孝訳『アラブの歴史』みすず書房 1967 p.69-70>(古い書物なので回教となっていますが、イスラーム教と読み替えて下さい。)非アラブ人はアラブが建設した軍営都市(ミスル)に流入し改宗することでアラブと経済的・社会的にも対等であることを主唱した。しかしウマイヤ朝政府は、歳入が減少しないよう改宗を妨害したり、マワーリーを都市から追いだして帰農させようとした。マワーリーは兵士として従軍しても給与と戦利品の分配で不利なままに置かれた。しかしマワーリーの人口は急激に数を増やし、アラブの人口を凌駕するようになり、都市は不満を持ったマワーリーの存在によって危険な状態になっていった。
(引用)アラブ国家は、その構成全体からすれば、少数者にすぎないアラブが、租税を負担する多数者たる非アラブを支配する、という想定のうえにできあがっていた。経済的にマワーリーを平等化するということは、国庫収入の減少と経費支出の増大を意味していた。そうなると、結果は完全に崩壊でしかない。支配階級とマワーリーとの区別は、アラブと非アラブという人種的な区分とおおむね一致するものの、根本的には民族的というよりは、むしろ経済的な差別にほかならなかった。<バーナード・ルイス『同上書』p.70-71>シーア派との結びつき マワーリーの不満は、シーア派の宗教運動というかたちで表明されるようになった。マワーリーが多いイラクのクーファはかつてアリーが都にしたところであったので、ダマスクスに都を移したウマイヤ家に対する対抗心が強かった。預言者の血統を引く者を正統とするシーア派の主張は、アラブよりもはるかにマワーリーの心を捉えた。シーア主義に代弁される反体制運動は、アラブに対する民族的抵抗、というよりはウマイヤ家によるアラブ貴族体制に対する反抗であった。<バーナード・ルイス『同上書』p.71->
マワーリー問題
マワーリーの不満、反抗は、その後も「マワーリー問題」としてウマイヤ朝政府にとっての重大課題として続いた。8世紀の初めの8代カリフのウマル2世(在位717~720)は都市に移住したマワーリーを官庁(ディーワーン)に登録し、俸給(アター)を与えることにするなどの対策をとったが、アラブと非アラブの平等を実現することは出来なかったため、ウマイヤ朝のアラブ至上主義は次第に行き詰まった。不満を持つマワーリーがシーア派の宗教運動と結びついたことも、ウマイヤ朝にとって危険なことではあったが、ウマイヤ家の内紛などもあって十分な対応がとられなかったことで、750年のアッバース家のクーデタによって倒され、アッバース朝へと移行する。アッバース朝でのマワーリー
アッバース朝は首都をイラクのバグダードに移したことにみられるように、アラブの国家であるという性格から、非アラブのマワーリーを含めたイスラーム教徒の国、つまりイスラーム帝国という性格を前面に打ち出した。同時に貿易や商業活動、銀行業の興隆などが顕著となり、かつてのようなアラブ戦士が支配階級を構成するという状況ではなくなった。アラブ戦士は姿を消し、国庫からの年金などの特権も失われた。アッバース朝の税制改革ではアラブと非アラブの税制上の平等化が図られた。しかし、王朝そのものはアラブの王朝であるという伝統を誇りにしていたので、アラビア語は依然として行政と文化での唯一の言語であった。(引用)アラブ民族の理論的優位が存続し、それが文芸界と知識人のあいだに非アラブの対等要求をするシュユービーヤ運動の出現を招いたのだ。だが、アラブという言葉そのものに重要な変化が生じつつあった。この時期からは、アラブとは、閉鎖的な世襲身分のことではなくなり、アラビヤ語を話す誰もが、帰化によって同胞として受け容れられる体制を備えた人間集団のこととなった。マワーリーは、アラブとして全面的に承認されることで社会的に解放され、カリフのホラーサーン人近衛兵までが、ことごとくアラブになった。<バーナード・ルイス『同上書』p.92>