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トゥールーン朝

9世紀中ごろ、アッバース朝時代にエジプトに成立したイスラーム地方政権。アッバース朝に仕えるマムルークであったトゥールーンの子アフマドが868年に自立。サーマーン朝、サッファール朝、アグラブ朝などと共にイスラーム世界の分裂傾向を進めた。

 868年アッバース朝カリフに仕えるトルコ人奴隷兵士(マムルーク)であったトゥールーンの子、アフマド=ビン=トゥールーンが、エジプト総督の代理として実権を握り北アフリカに独立政権を樹立、エジプトとシリアを支配した。868年から905年まで存続した。

イスラーム世界の分裂傾向

 エジプトにトゥルーン朝が成立した9世紀後半は、イスラーム世界の分裂が始まった時期である。アッバース朝ではトルコ系の軍人の勢力が台頭し、カリフの政治的支配力にかげりが見え始め、それに呼応する形で、東方の中央アジアではサーマーン朝が、イラン東部ではサッファール朝が自立し、西方ではすでに8世紀にイベリア半島で後ウマイヤ朝が成立していた。ついで10世紀の前半になると、アッバース朝のカリフ兼を認めないファーティマ朝や、バグダードを占領したブワイフ朝などが登場し、イスラーム帝国の分裂が明確になっていく。

エジプト最初のイスラーム自立政権

 トゥールーン朝は、エジプトの富がアッバース朝の都バグダードに運ばれ、収奪されることに反発して独自政権を樹立したのであり、イスラーム時代になってからはじめて、エジプトの富をエジプト社会のために利用する公権力となった。その富によって建造された巨大なイブン・トゥールーン・モスクは、カイロ旧市街に残されており、当時のエジプト社会の繁栄を伝えている。
 このトゥールーン朝時代には、それまでエジプトの肥沃な土地を支えると共に、人々の悩みのもとでもあったナイル川の増水を測るために、「ナイロメーター」がフスタートの隣のローダ島に設置された。
 トゥールーン朝はしかし短命に終わり、再びアッバース朝に吸収され、エジプトは次に、チュニジアに起こったシーア派政権のファーティマ朝によって969年に征服され、そのもとで新都カイロが建設されることになる。

イブン=トゥールーン=モスク

イブン=トゥールーン=モスク

Mosque of Ibn Tulun, Cairo
Wikimedia Commons

 現在のエジプトの首都カイロの観光名所の一つにイブン=トゥールーン=モスクがある。もう一つの観光名所であるサラディンの城塞から少し南西に歩いた庶民的な地区にあり、そのあたりの風情にはおよそ似つかわしくない大きく荘重なモスクである。イブン=トゥールーンとは9世紀後半にアッバース朝カリフによってエジプト総督に任じられた人物で、その父はトルコ人奴隷でアッバース朝カリフの近衛軍長官だった。そのため、イブン=トゥールーンも若い頃、アッバース朝の都サーマッラーで過ごしている。868年にトルコ人傭兵部隊を率いてエジプト入りし、その地の豊かさを自分の目で確かめ、単なるカリフの総督であることに満足できず、エジプトの富を自らの裁量の下に置こうとして、一種の独立政権を樹立しようとした。そのため彼はアッバース朝のカリフに定期的に貢納を送りながらも、879年にはみずからの名を刻した貨幣を発行し、自立の姿勢を示した。
 イブン=トゥールーンは当時のエジプトの中心地フスタートの北に、新たな町カターイーを築き、宮殿や馬場、モスクなどを建設した。そのモスクは建設に3年を要し、879年に完成した。それが現在も残っているイブン=トゥールーン=モスクである。モスク本体が123メートル×140メートル、中庭は92メートル四方の広さを持ち、中庭を列柱アーチ式の回廊が取り巻く、メディナの「預言者のモスク」以来の古典型を踏襲している。またイブン=トゥールーンが若い頃滞在したサーマッラーのモスクの影響がはっきりと現れている。<羽田正『モスクが語るイスラム史――建築と政治権力』2016 ちくま学芸文庫 初刊は1994 中公新書 p.87-95>
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羽田正
『モスクが語るイスラム史
――建築と政治権力』
2016 ちくま学芸文庫
初刊は1994 中公新書