印刷 | 通常画面に戻る |

フス戦争

1419年に始まるベーメンのフス派による反乱。15年以上にわたって続き、最後は戦闘継続を主張した急進派が、カトリック側と講和を望む穏健派の連合軍に敗れて沈静化した。

 カトリック教会はベーメン(ボヘミア、チェコ)のフスらの信仰を、1414年に始まったコンスタンツ公会議で異端として断定し、翌1415年、フスを火刑にした。その後、さらにプラハ市を破門、フス派の拠点であったプラハ大学を弾圧した。フスの教えを支持したプラハ市民はそれに反撥して修道院を襲撃、1419年からドイツ皇帝ジギスムント(カール4世の子)の派遣したドイツ軍との間で戦争となった。この戦争をフス戦争という。
 皇帝ジギスムントはフス派に対して「十字軍」と称して鎮圧にあたったが、チェク人の農民が広汎に戦争に参加し、民族の自立を目指して戦ったので鎮圧に失敗した。しかしフス派内部にも穏健派と急進派(タボル派)の対立があり、最終的にはジギスムントは穏健派と結んで急進派を制圧して、1436年に和平を実現した。フス派の中の穏健派はその信仰を守ることが許され、かわりにジギスムントをベーメン王として承認することで妥協が成立した。なお、フス派の住民をフシーテンとも言うので、この戦争をフシーテン戦争ともいう。

フス派の急進派と穏健派の分裂

 フス派はプラハを中心としたベーメンほぼ全土に広がり、皇帝や教会の派遣した軍隊に対して、優れた指揮官に率いられて「神の戦士」と自称して熱狂的に戦った。カトリック側は武力で鎮圧することをあきらめ、講和に持ち込もうとした。フス派の中にもあくまで戦おうとする急進派(タボル派)と講和を望む穏健派にわかれ、互いに戦うようになった。
 急進派はチェコ南部のタボル山に要塞を作って立てこもったのでタボル(またはターボル)派といわれた。彼らはフスの教説を厳格に守り、教会を否定し聖書のみを信仰の拠り所とする固い意志で結ばれ、財産共有制の実施するなど社会変革も掲げ、戦闘では5回にわたって皇帝軍を破るなど頑強に抵抗した。しかし、戦争が長期化する中で、皇帝ジギスムントは信仰の自由を認める代わりにベーメン国王として統治することを認めよ、と交渉を呼びかけると、フス派の中の急進派に批判的な商人や貴族などの穏健派は皇帝との妥協に傾き、ついに1434年のプラハ東方のリパニの戦いで、皇帝軍と穏健派が共同して急進派と戦い、急進派が敗れた。その結果、交渉が進められ、1436年についに講和が成立した。

戦争の結果と意義

 フス戦争は1419年に始まり、15年以上にわたる戦闘の末に1436年に終わりを告げたが、その結果は、単純にフス派の敗北と言うことはできない。正確には、皇帝とフス派穏健派がむすんで、フス派急進派(タボル派)を破ったのであり、フス派全体が敗れたわけでは無かった。講和の条件としてフス派の信仰の自由は認められ、ジギスムントもカトリック教会の財産没収、チェコ語を公用語とすることなどの妥協をおこなった上でベーメン国王となることが認められた。
 フス派が長期間持ちこたえた背景には、この戦争が、一つには反教皇・教会という宗教戦争であるという面と、封建社会からの解放をめざす農民戦争であるという面、さらにドイツ人の支配に対するチェック人の自立を求める国民戦争という三つの側面をもつ戦いであったことがあげられる。そして、信仰の自由と一定の民族の自立は認められたが、急進派の社会変革の要求は実現しなかった。
 また15年に及んだ戦争は、結果としてベーメン(チェコ)の国土を荒廃させ、人口を減少させ、神聖ローマ帝国による支配のもとで停滞することとなった。また、穏健派のフス派の信仰は認められたが、その後もカトリック教会との紛争は続き、両派の対立は16世紀の宗教改革後にさらに厳しくなり、1618年に三十年戦争の発端となるベーメンの反乱が起きることとなる。
印 刷
印刷画面へ
書籍案内

薩摩秀登
『物語チェコの歴史』
2006 中公新書