印刷 | 通常画面に戻る |

永楽大典

明の永楽帝が編纂させた、中国最大の百科事典編纂事業により、1407年に完成した。現在は多くが散佚している。

 永楽帝が編纂させた大百科事典。1407年に完成した。1404年に一旦出来上がったものを、不備あったため、改めて編纂し直した。完成を08年とする場合もある。全部で2万2877巻、1万1095冊からなるもので、百科事典としては中国最大と言われている。しかし、その多くは散逸して、現在は一部が残っているだけである。

明の永楽帝の編纂事業

 永楽帝は、文化人の僧道衍(どうえん)と学士解縉(かいしん)を中心に、翰林院の2200人の学者を動員して、中国最大の編纂事業を興した。朱刷りの罫紙に、唐の顔真卿の書体で文を写し、本の大きさは縦1尺6寸、横9寸5分という規格で揃えた豪華な装丁をほどこした。冊数にして1万冊以上、巻数にして2万巻以上という大百科事典で、天下のあらゆる書物から事項別に記事を抜き書きして編纂した。
(引用)帝は「どれだけ大規模になってもかまわぬ」と励ましたという。これをわずか5年でつくりあげた。帝のとくいな陣頭指揮の賜物である。さらに、印刷するため版木を彫りだしたが、あまりに金がかかるので、このほうは中止になった。しかし、この有史以来の破天荒な文化的大事業が、内戦におびえていた士大夫階級のどぎもを抜き、さらにその鎮静剤の役割をはたしたことはいなめない。そしてそのことは、大いなる時代の到来を告げるものであった。<三田村泰助『明と清』1995 世界の歴史14 河出書房新社 p.66>

Episode 『永楽大典』、砲車の下敷きに

(引用)膨大な『永楽大典』が完成すると、永楽帝はその巻頭に御製の序文を付け、帝の学問所であった文淵閣に保存することを命じた。あまりに大部な書物であったので、この時代には一部しか作られなかったが、のち、嘉靖41年(1562)、勅命によって、副本がもう一部つくられて、帝室文庫である皇史成におさめられた。永楽帝がつくらせた正本は、明帝国滅亡のさい焼失したが、副本は焼失を免れて、清帝国にうけつがれた。清朝では、これを翰林院におさめ、『四庫全書』の編纂などに大いに利用した。
 しかし、こうして大切に保存されてきた副本も、咸豊10年(1860)、アロー号戦争で英仏連合軍が北京に侵入した時、焼失したり散逸したりしてしまったので、現在では世界中に60余冊しかのこっていない。つたえられるところによると、北京に侵入した英仏連合軍は、この書物が超大型で部厚かったので、これを道路に敷きつめ、その上に砲車を砲車をとおしたということである。永楽帝が後世にのこした文化遺産の大部分は、こうしてうしなわれた。<寺田隆信『永楽帝』中公文庫 p.231-233>
印 刷
印刷画面へ
書籍案内

三田村泰助
『明と清』
世界の歴史14
1995 河出文庫初版

寺田隆信
『永楽帝』
1997 中公文庫
初版 1966 人物往来社