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北虜南倭

中国の15世紀中頃に始まり、16世紀に激しくなった、北方からの遊牧民(モンゴル系)の侵攻と、南方海域での海賊(倭寇)の活動のことで、明王朝の脅威となり、その滅亡を早めた。

 ほくりょなんわ。の統治の後半、特に、1550年代に明にとって大きな脅威となった外部勢力の侵入―北ではモンゴルのアルタン=ハンの侵攻、南では海岸地方を脅かす後期倭寇の活動―をあわせて北虜南倭という。この両面からの外患は、明にとって頭の痛いことであり、その犠牲も大きく、対策には莫大な費用がかかり、財政を圧迫した。ひいては明の衰退の原因となっていった(ただし、それによってただちに滅亡したのではなく、明はなおも90年ちかく存続する)。

モンゴルの侵攻と後期倭寇の活動

北虜 北虜とは、明の北方からその領土を脅かしたモンゴル系遊牧民の侵攻を意味する。明に圧迫されてモンゴル高原に退けられたモンゴル人の北元は1388年に洪武帝によって滅ぼされたが、靖難の役の混乱に乗じて勢力を回復したので、永楽帝は5度にわたってモンゴルを親征した。それでも完全に制圧することができず、1449年にはオイラト部のエセン=ハンが明軍を破り、正統帝を捕虜とする土木の変が起こった。明が長城の改修を開始したのはこの時からである。その後もタタール部のダヤン=ハンが有力となり、16世紀になるとアルタン=ハンに率いられてしばしば北辺に侵攻するようになった。とくに1550年にアルタン=ハンが北京を包囲したときは明にとって大きな脅威となって北虜といわれるようになった。
南倭 南倭とは、倭寇を意味するが、16世紀の倭寇は後期倭寇といわれ、日本人だけでなく、朝鮮人、中国人も加えた、東シナ海全域で活動した海賊集団であると同時に広く交易活動を行う、私貿易集団であった。後期倭寇の活動が活発になったことは、日明間で行っていた勘合貿易が行われなくなり、明を中心とした朝貢体制が維持できなくなってきたことを意味する。

「北虜」と「南倭」の結びつき

 明はモンゴルのエセン=ハン以来、貿易の拡大を求めて北方辺境に侵入を繰り返すモンゴル勢力に対抗するため、15世紀後半から万里の長城の整備を進め、長城に沿って九つの軍管区(九辺鎮)をおき、大量の軍隊を配置した。当初その費用として内地で現物税として取り立てた穀物を前線に運んでいたが、それは重く運ぶのに困難だったところから、次第に軽くて運びやすい銀を税として取り立て、それを北方に運んでそこで軍需物資を買いつけるシステムに移行していった。そのため内地人は銀を入手して税として支払わねばならなかった。税や徭役の銀納化がしだいに進むと、銀は不足し、手にいれることが困難となり、税を逃れるために一般農民は土地を捨てて逃亡するものもあらわれた。
 このように銀の需要が強まった16世紀に、日本銀の産出が急増した。しかし、明初からの政策である海禁によって日本産の銀の中国への流れは堰き止められている状態となった。そのような銀の流れを堰き止めるいわはダムの働きをしている海禁を押し破る動きが16世紀の「倭寇」であった。これは、14世紀の元明交代期に活動した前期倭寇と区別して後期倭寇といわれる。明代の前期にいったん鎮静していた倭寇の活動が16世紀に再び活発化した背景には、この銀の流れが存在する。この時期の倭寇は日本人ばかりでなく、中国沿岸などさまざまな地域の人からなる密貿易集団というのが実態であった。彼らは密貿易のかたわら略奪も行ったが、彼らのもたらす銀はこの地域の経済の活況の源でもあった。
(引用)「北虜南倭」と連称されるモンゴルと倭寇の危機がこの時期同時に高まったのは偶然ではない。北方の軍事的な緊張が高まるほど軍事費は増大して中国の銀需要は強くなり銀需要が強くなるほど日本銀流入の圧力は高まる。このように「北虜」と「南倭」とは、遠く離れた中国の北と南で、銀を媒介に深い関係をもっていたのである。<岸本美緒『東アジアの近世』世界史リブレット13 1998 山川出版社 p.8-12>
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岸本美緒
『東アジアの「近世」』
世界史リブレット13
1998 山川出版社