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石見銀山

16~17世紀、世界に流通した大量の銀を産出した日本の銀鉱山。

 島根県にあったの鉱山。大森銀山ともいう。16世紀の中ごろ、朝鮮から伝わった灰吹き法という銀精錬法を取り入れて日本銀の代表的な産地となった。石見銀山で生産された銀はヨーロッパ商人の手を経て、中国にもたらされ、基本通貨として流通した。17世紀初頭には石見や生野、院内などの日本産銀は世界の銀の3分の1から4分の1を占めたと考えられており、日本は当時世界最大の銀生産国の一つだった。しかしスペインは、1545年からの南米ペルーのポトシ銀山の開発を進め、17世紀末以降はメキシコ産の銀(メキシコ銀)原料としたスペイン銀貨が中国に流入するようになって、日本銀は次第に押されていった。18世紀には採掘量も減少し、現在は閉山している。

世界遺産 石見銀山

 2007年11月、島根県の石見銀山が世界遺産に登録された。次の文はその世界遺産としての価値について、ある新聞が専門家の見解を伝えているものである。
(引用)石見銀山は、大航海時代の十六世紀、ポルトガルの複数の世界地図に「銀鉱山群王国」などとして度々、登場する。また、フランシスコ・ザビエルは、日本が銀の島と呼ばれていることを手紙に記した。海外文献への再三の登場は日本側の論拠となってきた。だが、「石見銀山の価値は、単に文献に記録が残っている、という以上に大きい」と言う。
石見銀山開発の契機は中国での銀需要の沸騰だった。中国に銀を持ち込めば大もうけができる。そう考えた博多商人・神屋寿禎により、銀山は発見された。ではなぜ、中国で銀需要が沸き起こったのか―。「中国が十五~十六世紀、税の徴収単位を銅から銀に移行したからだ」と言う。銅銭は通貨としては重く、国内の経済規模拡大に伴い、不便さが生じていたと推定する。ただ、中国国内の産出量では絶対量をまかなえない。そこで、ポルトガル商人が間に入る貿易の中で、日本は銀で中国の高価な絹織物や陶磁器を購入。日本銀が中国に流れた。
 しかし、中国の強大な吸引力は、日本銀だけでも満たせなかったとみる。スペインが、南米の銀鉱山からフィリピン・マニラ経由で中国に銀を持ち込んだ。銀は十六世紀になって初めて、地球規模で流通を始めた。(中略)「世界の通貨体系が銀基軸に編成される中で、世界の流通銀の三分の一を供給したともされる日本銀、とりわけ石見銀がなければ、世界規模の交易は成立せず、世界史も変わっていたかもしれない」と強調。世界遺産に値する論拠とする。<『中国新聞』2007年7月11日 村井章介氏へのインタビュー記事による。>
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