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慶長遣欧使節/支倉常長

伊達政宗が支倉常長を使節としてメキシコ、スペイン、ローマ教皇に派遣した。1613年に出発し、1620年に帰国したが目的は達成できなかった。

 仙台藩主伊達政宗は、1613年(慶長18年)9月、メキシコ(スペイン領)との通商の開始、さらにスペインとの同盟締結をめざし、家臣の支倉常長らを派遣した。一行は支倉以下の日本人と、政宗に使節派遣を提案したフランチェスコ会の宣教師ルイス=ソテロらスペイン人あわせて180人であった。使節団の乗船サン=ファン=バウティスタ号は仙台藩の月ノ浦で日本人の船大工が建造した。月ノ浦を出航した使節は、太平洋を横断してアカプルコに上陸、常長ら31名がメキシコを経由してスペインに赴き、マドリードで国王フェリペ3世に面会した。スペイン王フェリペ3世は通商を認めなかったため、ローマ教皇からスペイン王を動かしてもらうためにローマまで行った。その間、支倉らの何名かはカトリックの洗礼を受けて信者となった。1615年11月、教皇パウルス5世に謁見したが、天正遣欧使節と異なり、正式なものではなかった。結局、ローマ教皇からの働きかけも得られず、スペインに戻り、なおも国王への面会を求めたが果たせず、1620年にマニラを経由して長崎に帰着した。<以下は、大泉光一『支倉常長』1999 中公新書 による>

伊達政宗の派遣目的は何だったか。

 表面的にはメキシコ(ノビスパン)との通商交渉と欧州への宣教師派遣の要請であったが、支倉常長と宣教師ソテロがスペインとローマまで行った理由はもっと深い理由がある。政宗は1613年の使節を派遣した時点では、大坂冬の陣・夏の陣の前であり、徳川家康の権力も万全ではないと見ていたようだ。もし家康が敗れたときは、政宗にも天下を取るチャンスが来るかも知れない。その時に備えてスペインと同盟し、その軍事力を利用しようと考えていたらしい。ただこの説を証明する明確な史料は当然残っておらず、唯一、仙台領で布教にあたっていたイエズス会宣教師アンジェリスのイエズス会本部宛書簡に記されているだけである。政宗は娘を家康六男の松平忠輝に嫁がせており、秀忠に代わって忠輝を擁立することも構想していたのかも知れない。<p.26、p.182>政宗に使節派遣を働きかけ、同行したフランチェスコ会宣教師ソテロは、イエズス会に対抗して日本布教での主導権をローマ教皇から認めてもらいたいという野心があった。<p.26>

家康はなぜ使節派遣を許可したか。

支倉常長像
支倉常長像
ローマ ボルゲーゼ美術館蔵
 徳川家康は伊達政宗の遣欧使節をとうとらえていたのか。実は政宗の使節派遣は幕府の許可を得ており、大船の建造も船奉行向井将監の監督下で行われたのだった。家康はスペイン領のメキシコの金銀の採掘と製錬技術に強い関心を持っており、マニラ=アカプルコ間のガレオン貿易に関わることを望んでいた。スペインとの関係は1596年のサン=フェリペ号事件(土佐に漂着したスペイン船の乗組員が、宣教師がキリスト教を布教した後にスペインが各地を征服した、と自慢したのを咎めた豊臣秀吉が、長崎で26人の宣教師や信者を処刑した)以来、断絶していたので、家康はその再開を願い、1610年には常陸に漂着したスペイン船がアカプルコに向かうことになったので田中勝介を初めてメキシコに派遣したこともある。しかしこのときは、キリスト教禁止は変更しないという態度だったため交渉は不成立に終わっていた。そこに伊達政宗の申し出があったので、それを許可し、どうせうまくいかないだろうが、万が一成功したときは、その利益を幕府のものにしようと考えたのかも知れない。あわよくば……ということで許可したのであろう。

支倉常長が何故使節に選ばれたか。

 本来なら、伊達政宗の一族か家老級の重臣が使節となるべきであるが、支倉常長は中級の藩士といったところであった。彼が選任された理由についてはイエズス会宣教師のアンジェリスは、彼の父がある罪を犯し、彼も本来なら斬首されるところだったが、政宗はこの使節がもし幕府から咎められたり、失敗したときに責任を取らせるにはこのような軽輩がよいと考え、死刑と同じ渡海の苦痛を与え、「おそらく航海の途中で死ぬだろうと思って大使に任命」したと証言している。<p.33>

使節が失敗した理由は何か。

 政宗は通商交渉と同盟を認めさせるためには、自らキリスト教徒の保護者であるという姿勢を示した。しかし、現実には日本で多数のキリシタンが迫害されていることはスペインでもローマ教皇でも明白に知られていた。スペイン国王もローマ教皇もそのような二枚舌を見抜いており、その応対は遠来の使節を迎える儀礼的な歓迎はあったが、「どちらかといえばキリシタン弾圧国からやってきた厄介者」として扱われた<p.56>。支倉常長は、スペイン国王やローマ教皇と立派にわたりあって怖じけるところはなかったが、いかんせんスペイン語もラテン語も分からないので、交渉や文書作成はすべてソテロにまかせざるを得なかった。またイエズス会とフランチェスコ会の対立も、スペイン国王やローマ教皇との交渉にとってマイナスであった。

帰国後はどうなったか。

 使節がスペイン王に謁見していたころ、大坂夏の陣が終わり、豊臣氏が滅亡、徳川家康の覇権は確立した。伊達政宗も目論見はこれで崩れた。翌1616年、家康は死去、日本人の海外雄飛の時代は終わっていた。キリスト教禁教令は全国に及び、各地でキリシタンの摘発と処刑が相次いでいた。支倉常長は1620年に仙台に戻ったが、藩の正式記録には記録されていない。2年後に52歳で死去したが、彼は棄教したと言う説と、信仰を守ったという説があり、いずれかは判断できない。その子の六右衛門常頼はキリシタン禁令を破った罪で領地没収、切腹となっている。なお、宣教師ソテロはマニラから長崎に潜入したが間もなく発見されて、火あぶりとなって殉教した。伊達政宗は支倉常長が帰着した1620年から、仙台領で積極的にキリシタン取り締まりを行うようになった。政宗は1636年、70歳まで生きた。

Episode 日本人侍の子孫? スペイン人ハポン姓の謎

 スペインのセビリアの近郊、コリア・デル・リオという町には、ハポン、すなわち「日本」という姓を持つ人が830人もいる。この町は慶長遣欧使節の支倉常長らが、往路で4日間、復路で9ヶ月滞在した町である。そこで彼等は使節の末裔ではないか、といわれている。町役場に勤めるビクトル=バレンシア=ハポンさんは、自分たちが仙台から来た侍の子孫かどうか確認するため、役場に残された古文書を調べたところ、エストーリア教会に残された1667年の洗礼台帳に、ホアン・マルティン・ハポンの名を発見した。ハポンは第二姓なので、母親がハポン姓を名乗っていることになる。使節が滞在していた1616年から51年後にあたり、ホアン・マルティンが洗礼を受けた歳と母親が彼を生んだ歳を25歳と仮定すれば、時期が合う。ただ1604~65年の台帳は現存していないので確証はないが、1604年以前の台帳にハポン姓はない。ハポン姓を残した人物についても大泉光一『支倉常長』で推理をめぐらしている。<大泉光一『支倉常長』1999 中公新書 p.79-82>
 なお、ローマの名門ボルゲーゼ家の所有する美術品の中に、立派な「支倉常長」像がある。支倉常長が謁見したローマ教皇パウルス5世はボルゲーゼ家の出身で、ローマで一行の世話をしたのがボルゲーゼ枢機卿であった。この絵は支倉がローマを去った直後の1616年に描かれた。なお、仙台市博物館には国宝の支倉常長像や彼が持ち帰ったローマ教皇パウルス5世像、彼に与えられたローマ市民権証書などが保管されている。またバチカンのローマ法王庁には伊達政宗の書状も残されている。<NHK『ボルゲーゼ美術館展カタログ』2010 NHK>
 また、遠藤周作の『侍』は支倉常長を主人公とした小説で、使節としての任務を進めるために洗礼を受けた常長が、真の信仰との間で悩む姿を重厚な筆致で描いている。
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書籍案内

大泉光一
『支倉常長』
1999 中公新書

遠藤周作
『侍』
新潮文庫