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インカの反乱

インカ帝国滅亡後もインディオのスペインに対する抵抗は続き、1536年にマンコ=インカが反乱を起こす。

 インカ帝国は、スペインの派遣した征服者であるピサロによって、1533年には滅亡した。しかし、それでインディオの抵抗が終わったわけではない。それ以後もインカの残存勢力はインディオを率いて、ペルー総督となったピサロなどスペインの征服者に対する抵抗を続けていた。その最大のものが1536年~37年に、皇帝マンコ=インカがくわだてた反乱で、マンコ=インカの反乱ともいう。

皇帝マンコ=インカの反乱

 マンコ=インカは1533年に皇帝アタウワルパが殺害されてからピサロによって擁立された傀儡皇帝であったが、翌年クスコを脱出し、アンデス山中のビルカバンバを拠点に勢力を保持していた。しばしばピサロなどスペイン人と交渉し、和平を実現しようとしたが、スペイン人側は際限なく金銀や女性の提供を要求したので決裂し、ついに反乱を決意し、1536年にクスコを包囲した。しかしスペイン軍の火砲、騎兵によって敗れ、翌年までに反乱は鎮圧された。しかしその後も、マンコ=インカの子のティトゥ=クシ=ユパンギが皇帝位を継承して抵抗を続け、その死後の1572年に最後の皇帝トゥパク=アマルが捕らえられて処刑され、インカの反乱は完全に終焉した。

インカの反乱のその後

 1570年2月、ティトゥ=クシ=ユパンギはスペイン国王フェリペ2世に対し、ピサロによって征服されてからのペルーの惨状を告発し、自らキリスト教に改宗するなどの妥協を行ってインカ帝国の存続を訴えた。その時の彼の口述書がスペインに残されており、日本語訳を読むことができる(『インカの反乱』岩波文庫)。そこにはスペイン人をビラコチャ(神)だと思って信頼して受け入れたにもかかわらず、ことごとく裏切られて金銀を奪われ、国土まで奪われた皇帝の悲哀が物語られている。ただし、背景にはインカ帝国の帝位をめぐる同族の争いがあり、スペイン人と結んで優位に立とうとした面もあって、細部には自分の弁護に有利なように事実を違えて述べたところもあるようだ。<ティトゥ=クシ=ユパンギ述/染田秀藤訳『インカの反乱』 1987 岩波文庫 およびその解説による>
 ユパンギは1568年にキリスト教に改宗、その弟トゥパク=アマルが皇帝となったが、1572年スペイン軍にとらえられて処刑され、インカの皇統は完全に途絶えた。トゥパク=アマルの名は、ペルーの人々に植民地化に対する抵抗の象徴となり、1780年の反乱はトゥパク=アマルの反乱といわれている。また現代のペルーの反乱、さらには1996年の日本大使館占拠事件などの反政府組織の名として復活する。
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書籍案内

ティトゥ=クシ=ユパンギ口述・染田秀藤訳
『インカの反乱』
1987 岩波文庫