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ミュンツァー

ドイツ農民戦争の指導者。ルターの影響を受け教会改革に立ち上がるとともに農民の反封建闘争と結びついた武装闘争に転化させた。蜂起後はルターと対立し、農民軍も鎮圧され、1525年、斬首された。

 トマス=ミュンツァーはドイツの南ザクセンに生まれ、ライプツィヒ大学で神学を学び、カトリック教会の司祭に叙任されて、各地の教会を遍歴した。その途中、1519年にルターと出会い、その思想に刺激されて、教会改革に投じ、ツヴィッカウの教会説教師として活動する王になった。その中で、フス派の再洗礼派の影響を強く受け、最後の審判と千年王国の到来を説き、教会の現状の腐敗堕落を激しく攻撃するようになった。

ドイツ農民戦争を指導

 その教会批判は、聖職者が封建領主であったドイツにあって、その封建的な搾取に苦しめられていた農民の心をとらえた。特にドイツの中部から南部にかけて、農民一揆が頻発するようになると、その運動に身を投じるようになり、1524年夏、チューリンゲン地方で農民を武装させ、反乱に立ち上がった。ミュンツァーの思想は単なる教会改革にとどまらず、社会変革と結びついた反封建闘争に転換し、全ドイツ規模で広がりをみせるようになって、ドイツ農民戦争と言われている。
ルターとの決別と敗北 ルターは、ミュンツァーの教会批判には同調し、当初はその運動を支持したが、運動が農民の解放という社会改革向かいはじめると次第に距離を置くようになり、武装闘争には反対して農民戦争を非難するようになった。ルターとは全く袂を分かったミュンツァーは、ルターを厳しく非難し、互いに非難しあう関係となった。
 ミュンツァーはチューリンゲンのミュールハウゼンでは市当局を倒すなどの勢いがあったが、過激な原理主義は次第に離反者が現れ、封建領主側による弾圧も強くなって、最後はヘッセン辺境伯の派遣した軍の攻撃を受け、ミュンツァー自身が斬首されて農民反乱は鎮圧されて終わった。
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