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フェルディナント2世

ハプルブルク家のボヘミア王。1618年、カトリックを強要してプロテスタント貴族の反発を受けベーメンの反乱を誘発。神聖ローマ皇帝(在位1619~1637)として三十年戦争でカトリック勢力を主導した。

 オーストリア=ハプスブルク家初代のフェルディナント1世の孫にあたるが、傍流としてシュタイアーマルク大公の地位にあった。1617年に神聖ローマ皇帝マティアスからボヘミア王国(チェコ王国)の国王に指名された。それを機にハプスブルク宮廷をプラハからウィーンに移した。フェルディナントは若い頃、イエズス会の修道士から教育を受け、熱烈なカトリック教会への信仰心を持っていたので、フス以来の反カトリック教会の勢力が続き、宗教改革後に成長していたチェコのプロテスタント派に対する弾圧を強めることとなった。

ベーメンの反乱始まる

 フェルディナントはボヘミア王(チェコ王)としてプロテスタント弾圧策を強めたため、翌1618年、プロテスタントがフェルディナントの代官をプラハ城の二階の窓から投げ下ろすという事件をきっかけにベーメンの反乱が始まった。プロテスタントの反乱はチェコ全土に広がり三十年戦争の勃発となった。

三十年戦争

 フェルディナントは1619年に神聖ローマ皇帝となり、神聖ローマ帝国としてドイツ、チェコ、ハンガリーを支配、1620年にはビーラー=ホラの戦いでチェコのプロテスタント諸侯連合軍を破り、優位に戦いを進めた。特に軍人ヴァレンシュタインを登用し、三十年戦争の前半には各地で勝利を占めた。しかし、新教徒側にスウェーデン国王グスタフ=アドルフが参戦すると形勢が不利となった。その間、ヴァレンシュタインとの関係も悪化し、1634年のその死はフェルディナント2世による暗殺との説もある。戦争が長期化し、フェルディナント2世は終結を見ることなく、1637年に死去した。
 三十年戦争は、フェルディナント2世の子のフェルディナント3世の時になって1648年にようやく講和が成立、ウェストファリア条約によってドイツ諸侯の領邦としての主権が認められたため、ハプスブルク帝国としての統一的支配力は大きく後退することとなった。
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