5月3日憲法(ポーランド)
1791年5月3日、ポーランドで制定された立憲君主制憲法。ヨーロッパ最初の成文憲法であったが、翌年、ロシアのエカチュリーナ2世が保守派と結び停止され、さらに翌年、第2回ポーランド分割が行われる。
第1回ポーランド分割の後に
ポーランド王国は、ロシア(エカチェリーナ2世)・プロイセン(フリードリヒ2世)・オーストリア(ヨーゼフ2世)の周辺三国から領土分割を迫られ、1772年、第1回ポーランド分割をポーランド議会が受け容れた。これは次の世紀にまたがるポーランドの苦悩の始まりであったが、世界情勢ではまったく逆の動きが始まった。1775年にはアメリカ独立戦争が始まり、翌年にはアメリカ独立宣言が出され、さらに1789年にはフランス革命が始まって人権宣言も発せられた。ポーランドの青年の中でも強く刺激されてコシューシコのようにアメリカ独立戦争とフランス革命に参加する者も現れた。そのような中で、選挙王制のもとでシュラフタ(特権的地主階級)が社会を押さえているポーランドにおいても、人権と自由の理念が芽生え、周辺の強国に脅かされている祖国を救おうという動きが現れた。
ヨーロッパ最初の成文憲法制定
ポーランドの議会(「4年国会」別名大国会、1788~92年)の会期中、1789年12月にコウォンタイがポーランド都市民の権利を主張する請願書を提出した。そのとき請願者全員が黒衣をまとって行進したので「黒衣の行進」といわれ、ポーランドでも革命が起きるのではないかと騒がれたため、請願書は受理され、問題を検討する委員会が直ちに組織された。1791年5月3日、議会は「5月3日憲法」を採択した。この憲法では、ポーランドは立憲君主政をとり、選挙王制を廃止してスタニスワフ・アウグスト以降はザクセン家(選帝侯を出した家柄)が王位を世襲することとされた。また議会でのシュラフタの特権であった「自由拒否権」(リヴェルム・ヴェトといい、シュラフタが一人でも反対すると決議できない制度)を廃止して、多数決で採決することとされた。また市民には土地を所有したり、高位の職に就いたりするこ道が開かれ、納税は全住民の義務とされた。しかし、農民の権利については認められていなかった。<渡辺克義『物語ポーランドの歴史』中公新書 p.43>
このようにポーランドの「5月3日憲法」は、不十分とはいえ、近代的な議会制、人権規定などを有した成文憲法であり、世界史的にはアメリカ合衆国憲法(1787)に次ぐ世界で2番目であり、ヨーロッパではフランスの1791年憲法(1794年9月)に先行する最初のものであった(イギリスも立憲君主制であるが成文憲法では無かった)。
ロシアの圧力で憲法を停止
しかしこの憲法は制定過程でも問題があった。起草作業は急ピッチかつ秘密裏に進められ、議会では反対派が不在となる春の休暇時をねらい上程されたのだった。反対派は連盟を組織し、ロシアに軍事介入を要請した。ロシアは1792年5月18日、軍隊をポーランドに侵攻させ憲法破棄を迫った。国王は憲法の護持とひきかえに王位をエカチェリーナ2世の孫のコンスタンチンをポーランド王に譲るという妥協案を示したが、ロシアの回答は国王の王位を認める代わりに憲法を破棄してロシアによる護持体制へ復帰を要求するものであった。国王はロシアの回答を受け容れ、憲法を停止した。第2回ポーランド分割の進行
憲法をめぐる軍事衝突は第2次ポーランド分割へとつながった。1793年1月23日、ペテルブルクでロシア・プロイセン間で第2回分割の分割の調印が行われた。エカチェリーナ2世がプロイセンとの第2次ポーランド分割を急いだのは、フランス革命の急展開に対抗するためであった。この時オーストリアはバイエルンに関心を示し、ポーランド分割には加わらなかった。第2回ポーランド分割は、6月から11月、ポーランド最後の議会(グロドノで開催された)で、買収された議員たちによって承認され、ポーランドは再びロシアの保護体制下におかれ、内政・外政ともにロシアに委ねることとなると同時に東方領の大部分がロシアに併合されたのだった。
コシューシコの蜂起 国王スタニスワフ=アウグストが憲法反対派の連盟に加わると、憲法を支持する活動家たちは亡命し、武装蜂起の準備に取りかかり、1794年3月24日にコシューシコによって指導されて決起した。蜂起は各地でロシア軍を苦しめ、善戦したが、10月に敗れ、コシューシコも捕虜となったため、11月に終焉した。翌1795年にロシア・ポーランド・オーストリアによる第3回分割が行われ、国王は退位し、ポーランドはヨーロッパの地図から消滅した。
5月3日は憲法記念日
(引用)ともあれ、5月3日憲法は、18世紀末の環大西洋地域をめぐる変革の時代に生まれたアメリカ憲法(1787年)、フランス91年憲法(1791年)とならぶ、世界史的にみて今日にいたる民主主義の伝統の源流のひとつとなった。5月3日憲法は、19世紀を通じて1918年の国家再建にいたるまで独立運動のシンボルであったが、社会主義体制下ではブルジョワ憲法として否定的な扱いを受けた。しかし、1989年の東欧革命後の「連帯」政権下で祝日として復活した。<『ポーランド・ウクライナ・バルト史』世界各国史 山川出版社 p.183>