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古典派経済学

18世紀のイギリスで生まれた経済学でアダム=スミスが大成。自由な経済活動によって市場の活性化が経済を発展させると考え、国家による経済統制を最低限に抑えることを主張した。

 1776年に刊行されたアダム=スミスの『諸国民の富』(国富論)によって体系化された。「古典派」というのは、資本主義経済を本格的に分析した最初の学説、という意味である。古典派経済学の中心思想は、自由主義経済理論であり、冨の源泉を人間の労働に求め(労働価値説)、その労働生産性を高めるためには市場における自由な競争が必要であり、国家は企業の経済活動に対し規制や介入を加えるべきではないというものである。このように古典派経済学は、自由な人間の活動や私有財産、利潤追求といった近代ブルジョワ民主主義社会の人間観と合致する経済思想であったといえる。

リカードとマルサス

 アダム=スミスの後、リカード(1772~1823)が自由貿易の利点を具体的に明らかにすることによって、1830年代以降のイギリスの自由貿易主義を実現させた。また、マルサス(1766~1834)は、『人口論』で人口増加にともなう食糧の不足を貧困の原因と捉えた。

古典派経済学への批判

 自由放任を理念とする古典派経済学に対する批判としては、国家統一が遅れていたドイツでイギリスと対抗しながら工業化を図るには保護貿易主義が有効であるとするリストの経済思想が生まれた。リストは、自由競争は絶対の真理ではなく、経済発展の道筋は各国の歴史的事情によって異なると考え、その経済理論は歴史学派経済学といわれた。
 19世紀は古典派経済学の最盛期であったが、一方で古典派経済学に学びながら、資本主義そのものを批判的に分析したのがマルクス(1818~1883)であり、その史的唯物論に基づいた学説が「マルクス主義経済学」である。マルクスとエンゲルスによって1848年に『共産党宣言』が発表され、資本主義社会に代わる社会主義国家の樹立を政治目標として掲げる運動が始まった。マルクス経済学は、フランスの初期社会主義と共に古典派経済学から出発し、それらを批判的に乗り越えることによって、理論を構築していく。

ケインズ学派の登場

 古典派経済学は資本主義の発展と共に多様化していったが、20世紀に入り、産業の重化学工業化が進むと共に資本の集中が進行し、独占資本が形成され、それが国家と結びついて帝国主義といわれる段階になると、古典派経済学もその有効性を失っていった。
 帝国主義の矛盾が第一次世界大戦をもたらし、さらに大戦間の時期に危機を克服することができずに1929年に世界恐慌を経験することになったため、新たな経済理論の構築が必要とされるようになった。そこに登場したのがイギリスのケインズで、1936年『雇用・利子および貨幣の一般的理論』を発表して、完全雇用の実現による社会の安定を実現する途を探った。そこでは従来の自由放任思想によって市場原理だけに経済を委せるのではなく、国家が課税政策や金融政策によって経済をコントロールし、富の独占ではなく分配を図ることが必要であると説いた。この修正資本主義は、資本主義に社会主義的な計画経済の要素を加える側面もあり、第二次世界大戦後の資本主義諸国において広く取り入れられた。
 → 資本主義
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