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チューリップ時代

18世紀前半のオスマン帝国が一時的に安定し、フランスの影響を受けた時代をいう。

 オスマン帝国は1711年にはピョートル大帝のロシア軍をプルートの戦いで破り、その侵攻を一時食い止めた。結局アゾフ海の支配権は失ったが、18世紀前半のアフメト3世(在位1703~30年)時代は比較的安定した時代を迎えた。
 この時期はフランスとの提携が進んだため、宮廷にはフランス文化の影響を受けた華美な文化(例えばフランス風の音楽や社交ダンスが好まれ、コーヒーや酒がふるまわれるサロンが開かれたなど)が開花した。その時代をチューリップ時代といっている。しかしオスマン帝国内の社会の矛盾は進行し、国力の衰退を回復することはできず、18世紀後半には再びロシア(エカチェリーナ2世)の侵攻を受け、クリミア半島を失うことになり、一方支配下のアラブ民族の独立運動が活発となる。ただし、「急速に衰退した」とは言えず、オスマン帝国はなおも19世紀を通じて存続し、消滅するのは1922年。 → オスマン帝国の危機

Episode 「トルコの帽子」という意味のチューリップ

 「チューリップはもともとトルコの宮廷の庭園で大事に育てられていた花で、これをあるオランダ人の商人がその美しさに感嘆してスルタンから下賜され本国へ持ち帰ったのが最初であり、その花がトルコのターバンに似ているところから「チュルクリップ(トルコの帽子)」と呼ばれるようになったことに由来しているという。」<大島直政『遠くて近い国トルコ』 1968 中公新書 p.120>
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大島直政
『遠くて近い国トルコ』
1968 中公新書