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ジャワ戦争

1825年に起こったジャワ島での反オランダ武力闘争。ディポネゴロに率いられた現地勢力がオランダと戦った。

 1825年~30年にインドネシアのジャワ島で起こった反オランダ武力闘争。その指導者の名前をとって、ディポネゴロ戦争ともいう。ジャワ島では1755年にマタラム王国が実質的に消滅し、王侯はそれぞれ領地が与えられ、オランダ東インド会社は彼らを通じて植民地支配を強めていった。しかし、フランス革命の動乱で本国がフランスに併合されたことを受けて、オランダは1799年にはオランダ東インド会社を解散した。
 ナポレオン没落によってオランダは独立を回復、一時イギリスに占領され、ラッフルズによる統治が行われていたジャワ島もオランダに返還されることとなった。1824年にはイギリス=オランダ協定で、マレー半島はイギリス領、スマトラ島・ジャワ島などをオランダ領とする植民地分割協定が成立し、ジャワでのオランダの支配権が確立した。
 オランダはジャワ島などを直接支配する方式に改めて、支配を強めようとしたが、すでにオランダ人以外のヨーロッパ人や華僑の経営する農園が拡大し、彼らは王侯や貴族に土地の賃貸料を支払っていた。オランダ当局がそれらの大農園を圧迫し、土地賃貸を禁止したことからジャワ島の旧支配層と農民層の反オランダ感情が強くなった。そのような背景で、マタラム王国の王位継承問題で不満を持つ王族のディポネゴロが反乱を起こした。

ディポネゴロの反乱

 1825年、ジョクジャカルタの王族ディポネゴロが反乱を起こすと、たちまちジャワ各地に拡大した。しかし、各地に要塞を築いたオランダは次第に反乱軍を追いつめ、ついに1830年にディポネゴロを捕らえ、反乱は収束した。この反乱は王位継承戦争の側面もあるが、マタラム王国系の支配層による最後の反オランダ武力闘争というのが基本的性格である。20万以上の死者を出した戦争で中部ジャワは荒廃し、オランダ当局は財政難もあって、反乱を鎮圧した1830年から政府栽培制度を導入すことになる。また、ジャワ戦争は、同時期のスマトラ島で起こったパドリ戦争とともに、オランダ領東インドにおけるオランダの植民地支配に対する戦いとして評価されている。
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書籍案内

永積昭
『アジアの多島海
世界の歴史 13 』
1977 講談社