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サイゴン/ホーチミン市

ベトナム南部最大の都市。フランス領インドシナの拠点、戦後のベトナム共和国の首都としてサイゴンと言われていたが、ベトナム戦争後の1975年にホーチミン市に改められた。

ホー=チ=ミン(サイゴン) GoogleMap

ベトナム南部のサイゴン川に面したこの地は、豊かな土壌に恵まれ、サイゴン川を利用して外洋にも出ることができることから、ベトナムの歴史上も重要な位置であった。その都市名や性格は大きく言って、プレイ=ノコール → ザディン → サイゴン → ホーチミン市 という四つの時期に分けることができる。なお、ホー=チ=ミン市(サイゴン)をメコン川河口にあるという説明があるが、それは誤り。サイゴン川はメコンデルタとはつながっていない。

プレイ=ノコール カンボジア領

 ベトナム南部の地域は、長くクメール人の居住地であったので、この地もカンボジアアンコール朝)の支配下にあって、プレイ=ノコールと言われていた。そのころは小さな集落であったに過ぎなかった。

ザディン ベトナムの進出

中部ベトナムに興ったベトナム人広南国阮氏政権)は、17世紀中葉から盛んに南下政策(南進)を進め、17世紀末にはベトナム中部のチャム人(かつてのチャンパー)を一掃し、さらにカンボジアの内紛に乗じてベトナム南部に進出し、1698年にこの地を制圧してザディン(嘉定)と名づけた。
中国人地区の形成 18世紀末には阮福暎がザディンを拠点として、中国系の住民(華僑)の商業活動を保護し、1778年に中国人地区(チョロン)が形成され、華僑はこの地での米の輸出などの貿易を活発に行い、それがこの地の商業都市としての発展の基盤となった。

サイゴン フランス領インドシナの拠点

 19世紀にフランスのナポレオン3世インドシナ出兵を行いって植民地化に乗り出し、その拠点としてここに国際貿易港を建設した。1862年にはサイゴン条約によってフランスに割譲され、コーチシナ植民地の首都となった。フランスは、1880年からはこの地をサイゴンと言うようになった。以後、サイゴンはフランス領インドシナ連邦の中心都市として、フランス風の都市建設が行われ、「東洋のパリ」といわれる近代的都市へと急速に発展した。その経済を支えたのは隣接するチョロンの華僑たちであった。
南ベトナムの首都サイゴン 第二次世界大戦後、1955年にベトナム共和国(南ベトナム)が成立すると、その首都となった。フランス撤退後はアメリカに支援された南ベトナム政府が治め、1965年頃からベトナム戦争に突入したが、商業都市サイゴンは依然として活発な活動を続けていた。しかしベトナム戦争は北ベトナム(ベトナム民主共和国)と南べトナム解放民族戦線が勝利し、アメリカ軍は撤退、さらに北ベトナム軍が南ベトナム軍を追撃して、ついに1975年にサイゴン陥落となって、ベトナムの統一が完成した。事実上、北ベトナムによる南ベトナムの併合であった。

ホーチミン市への改称

 1975年、サイゴンを革命指導者ホー=チ=ミンを讃えて、ホーチミン市と改称、翌76年には統一ベトナム=ベトナム社会主義共和国が成立した。一般に、都市名としては人名と区別してホーチミンと表記することが多い。
 それまで資本主義経済にで繁栄していた都市に対して、政府は一気に社会主義化をはかり、私有財産の否定、私企業の公営化などが強行されたため、多くの市民は恐慌に陥り、ベトナムからの脱出を図った。多くの旧サイゴン市民が、船で海上に乗り出して脱出を図ったのでその多くは遭難したり、シャム湾の海賊の餌食となり、彼らベトナム難民は「ボートピープル」といわれて国際的な問題となった。
経済の復活 1985年頃から、ベトナム政府はドイモイという改革開放路線に転換、資本主義・市場経済を取り入れるようになり、旧サイゴンの経済も復活しはじめ、かつての賑わいを取り戻しつつある。旧サイゴンのホーチミン市はベトナム一の人口を有しているが、ベトナムの政治の中心は北のハノイに握られている。
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