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三角貿易(19世紀)

19世紀のイギリスが本国とインド、中国を結ぶ貿易。イギリスが大きな利益を得て第二帝国と言われた繁栄をとげた。清朝はアヘンの蔓延と銀の流出のために急速に衰えた。

 17世紀から18世紀の三角貿易は、イギリス(及びフランス)・西アフリカ・西インド諸島およびアメリカ大陸の三カ所を結ぶ大西洋上の三角ルートで展開され、アフリカから西インド諸島・新大陸への黒人奴隷を運ぶ奴隷貿易と、西インド諸島からの砂糖と新大陸からのタバコ、綿花などをヨーロッパに運ぶのがその中心であった。

19世紀の三角貿易

19世紀三角貿易

a=綿製品 b=綿花 c=茶 d=アヘン e=銀

 19世紀のイギリスの三角貿易は、インドのアヘンと、中国のを結びつけるものであった。イギリスと中国の当初の貿易は、中国産の茶をイギリスが銀で支払うという、イギリスにとっての輸入超過状態であった。そこでイギリスはインドと同じように綿織物を中国に輸出しようとしたが、現地中国の綿織物業で生産される綿布(南京木綿)に質、および価格の面で敗れ、思うように売れなかったのでイギリスはインド産のアヘンを中国に輸出しようとした。東インド会社がベンガルのアヘンの専売権を得て、それを精製し、ジャーディン=マセソン商会などの貿易商に中国に密輸させたのである。それで得た銀で茶を買い付け、本国で販売し、本国の綿織物などの工業製品をインドに売りつけた。これによって中国の銀は大量に流出し、イギリスはその銀をアメリカからの綿花輸入の支払いにも使用し、国内の綿織物工場の原料とした。このように、中国市場は茶の輸出とアヘンの輸入によって、資本主義の世界市場に巻き込まれ、18世紀とは逆に銀が流出し、中国経済は大きな打撃を受けることとなった。

東インド会社の活動停止

 17,8世紀の三角貿易と19世紀の三角貿易の違いは、イギリス東インド会社がかつての重商主義時代の特許会社から、インド統治機構に変質し、さらに商業活動を停止したことである。これはイギリスの産業革命が進行し、重商主義経済から自由貿易主義への転換が図られた結果であった。すでに1813年に東インド会社はインド貿易の独占権廃止となり、さらに1833年には茶と中国貿易での独占権廃止も決定され、その商業活動は停止することとなった。そしてインド大反乱鎮圧後の1858年に東インド会社は解散する。
 このように、19世紀後半のイギリスのアジア貿易の基本は自由貿易を掲げていたのであり、三角貿易にも多くの貿易商が参加し、自由競争が行われたのである。
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