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イラン立憲革命

1905年にイランで起こった憲法の制定と議会開設を求めた民衆蜂起。1906年には国会が開設された。改革は1911年まで続いたが英露の干渉で挫折した。

 イランカージャール朝で、1905年3月から、民衆が憲法の制定と議会開設を求めて蜂起すると、その要求に応じて議会の開設を認め、1906年には国会が開設され、同年12月にはイラン憲法が制定された。
 その直接の契機となったのは、1904~5年の日露戦争での日本の勝利と、1905年に勃発したロシア革命(第1次)だった。戦争と革命によってロシアからの砂糖などの物資が止まり、民衆生活を圧迫、シーア派の法学者であるウラマーを先頭に政府批判を始め、日露戦争における日本の勝利は、立憲主義をとる国の、専制主義の国に対する勝利として捉えられ、各地に憲法の制定、議会の開設を要求する声が強まった。運動の高揚に押されたカージャール朝のシャーは保守派の大臣を罷免、議会を開設し、イラン憲法を制定した。この憲法はベルギー憲法をモデルにしたもので、次のパフレヴィー朝でも機能し、1979年にイラン革命が起きるまで存続した。
 一方イギリスとロシアは1907年英露協商を結び、イラン北部をロシア、東南部をイギリスの勢力圏とし、中間を中立地帯とすることで合意するという、帝国主義的分割協定を行い、それぞれイランにさまざまな干渉を行った。イラン立憲革命は立憲主義と同時に、国民国家の樹立を目指したが、イギリスとロシアによって国土の多くを分割支配されたことで、1911年に改革そのものが挫折した。
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