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チェカ

ロシア非常委員会の略称でロシア革命での革命政府の警察機構。反革命の取り締まりにあたった。

 1917年12月、ソヴィエト政権を反革命から守るために設置された「反革命・サボタージュおよび投機取り締まり全ロシア非常委員会」の略称。議長はジェルジンスキー。チェーカーとも表記する。
 当初は一時的な機関として設けられたが、その後は反革命の行動に対する逮捕その他の権限が与えられ、革命を推進する上で不可欠の機関とされるようになった。翌年3月には地方ソヴィエトは郡・県単位でチェカを設置し、食料を隠匿したり、政府への引き渡しを拒む農民に対しては、階級の敵である「富農(クラーク)」として逮捕した。特に1918~21年の戦時共産主義下ではチェカの存在は、ソヴィエト権力にとって不可欠のものとなった。
 1918年8月、レーニン暗殺未遂事件が起きた。実行犯は35歳の女性の社会革命党の左派(左翼エスエル)党員だった。左翼エスエルははじめソヴィエト政権に加わっていたが、ブレスト=リトフスク条約交渉の際、ドイツとの講和に反対し、戦争継続を掲げてボリシェヴィキと離反していた。彼らはテロ戦術を採り、レーニンもその標的とされ、狙撃されて重傷を負ったが生命はとりとめた。事件後犯人は捕らえられ、チェカは報復として512人の同派活動家を捕らえて射殺した。この事件を機に、チェカによる「赤色テロ」(それに対して反革命側によるテロは白色テロといわれた)は一段と激しくなり、9月には反革命に加わった「人民の敵」に対する強制収容所の設置が決められた。
 1921年の末にレーニンはチェカを改組する必要があると考え、第九回ソヴィエト大会に提案し、翌1922年2月、GPU(ゲーペーウー)(正式には国家政治保安部)に改組した。ゲーペーウーはソ連時代を通じて反革命、反体制派を厳しく弾圧する秘密警察として恐れられる存在となった。<外川継男『ロシアとソ連邦』1991 講談社学術文庫 p.322>
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