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フーヴァー

アメリカ合衆国第31代大統領。共和党。世界恐慌の発生に直面したが、当初は自由放任の原則から対策を立てなかった。1931年にフーヴァ=モラトリアムを発したが時機を失していた。

フーヴァー大統領
Harbert C. Hoover
1874-1964
 在任1929~1933年のアメリカ合衆国大統領。ハーディング、クーリッジと続いた1920年代の共和党大統領二代の商務長官を務め、経済政策の実務にあたった。1928年の大統領選挙で、経済繁栄を続けるなかで共和党の自由放任の原則の維持を掲げ(もっとも最も対立していた論点は禁酒法の継続か廃止かであった。フーヴァーは継続を公約した。)て圧倒的な支持を受けて当選した。1929年の3月に就任し、最初の演説で「永遠の繁栄」を約束した。彼の政策理念は、政府は企業や個人の経済活動に介入してはならないという自由放任主義を堅く守るものであった。

フーヴァー政権の恐慌対策

 そのため1929年10月に世界恐慌が勃発しても、当初、周期的な不況と考え、1年以内の回復を予想し、当面の対策をたてなかった。彼は「好景気はもうそこまで来ている」(Prosperity is just around the corner.)と繰り返し発言した。しかし、不況は長引き、恐慌の様相はさらにはっきりしてきた。1930年6月にはスムート=ホーリー法を制定して農産物・工業製品に幅広く高関税をかける保護貿易主義を採り、国内産業を保護しようとした。しかし、諸外国も対抗して高関税策を採ったため、世界貿易は減少し、恐慌をさらに深刻なものにしてしまった。
 結局、恐慌は回復の兆しを見せず、1931年には銀行の倒産が急増し、失業者はさらに増大、また恐慌は世界に波及して何らかの対策を講じる必要が出てきた。1931年にはフーヴァー=モラトリアムとしてドイツの賠償金と戦債の1年間の支払い猶予を打ち出し、恐慌の世界への波及を押さえようとしたが、すでにドイツなどヨーロッパ経済は壊滅的な打撃を受けていて、遅すぎたため効果がなかった。
 その対策は遅きに失し、傷口を拡大したと非難されている。各地に生まれた失業者のバラック小屋の集落は「フーヴァー村」と呼ばれ、恐慌の責任を一手に負うこととなり、1932年の大統領選挙で民主党のフランクリン=ローズヴェルトに敗れて退いた。

フーヴァー大統領の評価

 フーヴァー大統領の大恐慌対策について、歴史学者ビーアドは次のように評価している。
(引用)始めは、いつもの経済恐慌ぐらいのものだろうと考え、大統領は「われわれは前世紀に十五回にも及ぶ大きな不況を切り抜けた。‥‥その不況を切り抜けるごとに‥‥前にもました繁栄の時期をむかえた。今度もそうなるだろう」と言った。しかし、何ヵ月も、何年も続くに及んで、商工会議所、アメリカ労働総同盟、など諸団体は総合的な不況対策を政府に要求した。今まで恐慌に対して歴代の大統領は、私企業に介入する権限は憲法上もっていないと信じるがごとく、対策を講じてこなかったが、フーヴァー大統領はただちに、労働と資本とを再び活動せしめる大規模な公共事業計画の施行法をつくるよう議会に要請し、また復興金融公社と私有住宅金融公社の設立を実現させた。ひとびとが彼に非難をあびせたのは、彼が何もしなかったからではなく、やり方が全国的破局という重大さに相応した規模で正しい対策を十分やらなかったことに対してであった。<ビーアド『新版アメリカ合衆国史』 P.440-1>

Episode 人道主義者フーヴァー

 フーヴァーはアイオワ州の小さな開拓村の、一家5人が2部屋で暮らす貧しい農民の子に生まれ、8歳までに両親に死別した。同じクエーカー教徒の友人の推薦ででスタンフォード大学で学び、鉱山技師を志し、世界中の鉱山をまわって修行した(義和団事件の時は中国にいた)。やがてロンドンの鉱山会社の重役となり、大きな富を築いて独立した。40歳でロンドンにいた時、第一次世界大戦が勃発、フーヴァーは私財をなげうって北フランスやベルギーに取り残されたアメリカ人の救出にあたった。アメリカが参戦を決めるとウィルソン大統領の下で食糧問題の指揮を執るようワシントンに呼ばれた。戦後はパリ講和会議の連合国首脳の要請で、ヨーロッパの戦争罹災者の食糧供給の仕事に乗りだし、彼は「偉大な人道主義者」として知られるようになり、彼のもとには感謝をこめた100万人もの子どもの署名入りの図面が送られた。またウィルソンの指示でポーランドにも飛び、ロシアの作家ゴーリキーの要請を受けて革命後のロシアにも援助を差し向けた。<林敏彦『大恐慌のアメリカ』1988 岩波新書 p.59-67>
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林敏彦
『大恐慌のアメリカ』
1988 岩波新書