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日本の無条件降伏/終戦の詔書/降伏文書

1945年8月14日に日本政府がポツダム宣言の受諾、つまり無条件降伏を決定。翌15日に天皇が降伏の詔書を放送を通じて国民に発表。9月2日に降伏文書に調印し、正式に第二次世界大戦が終結した。

ポツダム宣言の「黙殺」

 連合国1945年7月26日に発表したポツダム宣言に対して、日本政府(鈴木貫太郎内閣)は、鈴木首相、東郷茂徳外相、米内光政海相らは国体護持(天皇制維持)のみを条件に受諾やむなしと考えていたが、阿南惟幾あなみこれちか陸相ら陸軍は受諾拒否を強く主張し、意見が対立した。首相は裏面での交渉の継続に期待して、回答を保留することにしたが、軍の強い要求によって態度の表明を迫られ、新聞で「黙殺」すると声明を出した。連合国は「黙殺」を受諾拒否と受け取り、アメリカによる広島・長崎への原爆投下、ソ連の対日参戦に踏み切る口実を得た。
 ポツダム宣言が「黙殺」されたため、8月6日、9日に広島・長崎原子爆弾が投下され、8日にはソ連が参戦、戦局が一気に悪化した。

8月10日の御前会議で受諾決定

 日本政府は御前会議(昭和天皇の参加する最高決定の会議)において激論の末、8月10日午前2時半に、「国体護持」を条件にポツダム宣言受諾を決定した。「国体護持」とは天皇制維持のことで、このまま戦争を続ければソ連の対日参戦により共産主義の影響が及んで天皇制が崩壊することを時の為政者は最も恐れた。またアメリカ国内の一部に、天皇制擁護の声(知日派の国務次官グルーは日本に終戦を受け入れさせるには天皇制存続を認め、戦後の再建にもその方がアメリカにとって有利であるとトルーマン大統領に具申していた)があることも情報として得ていた。
 東郷茂徳外相らは「国体護持」のみを条件としてポツダム宣言受諾を主張したが、阿南惟幾陸軍大臣らは自発的な武装解除、連合軍の本土進駐の回避、戦犯の自主的処罰の3条件を加えることを主張し、無条件降伏に反対した。鈴木貫太郎首相は最後に昭和天皇の判断、いわゆる「聖断」を求め、天皇は外相案を支持して、受諾が決定された。 → 無条件降伏とは

軍の抵抗と天皇の決断

 陸軍の一部には戦争継続を主張してクーデタ決行の準備が進み、緊迫する中、再度御前会議が開かれ、8月14日正午前に天皇の無条件降伏受諾の決断をふたたび仰いで最終的に決定した。敗戦の詔勅は天皇自ら録音し、翌日放送されることになったが、陸軍の一部将校がそれを阻止しようと放送局を襲うなど混乱した。クーデタは阿南陸相の自決などで失敗し、予定どうり15日いわゆる玉音放送(天皇の肉声が放送されたこと)が行われ、戦争は終わった。日中戦争開始からは15年目、 太平洋戦争からは4年目、第二次世界大戦全体では7年目であった。 → 終戦の詔書

戦争終結の日付

 日本では一般に「終戦の日」は1945年8月15日として定着している。しかし、正確にはその日は「終戦の詔勅を天皇が国民に示した日」であり、日本国家としてのポツダム宣言受諾は8月10日の御前会議で決定し、さらに8月14日に御前会議を経て「終戦の詔勅」に天皇が署名したことで正式に決まった。また、9月2日、東京湾上のアメリカ軍艦ミズーリ号上で日本が降伏文書に調印した日が、正式な太平洋戦争、日中戦争、第二次世界大戦の終わった日付である。8月15日は日本では終戦記念日とされ、韓国・北朝鮮ではその日を日本の植民地支配から解放された日として祝っている。しかし、世界的・国際的には9月2日が戦争の終わった日とされている。 → 日本の降伏文書

参考 チャーチルのみた日本の敗戦理由

 イギリス首相チャーチルは、その『第二次世界大戦回顧録』で、日本の無条件降伏について次のように述べている。連合国首脳であるチャーチルが、広島・長崎への原爆投下によって日本が降伏したという見方は間違っていると言っていることに注目。
(引用)八月九日、広島の原爆につづいて第二の原爆が、こんどは長崎に投下された。翌日、一部の軍部過激派の反抗にもかかわらず、日本政府ほ、この最後通牒が最高支配者としての天皇の大権を損うものでないという条件のもとに、これを受諾することに同意した。連合軍艦隊が東京湾に入り、九月二日朝、合衆国戦艦ミズーリの艦上で正式降服文書の署名が行なわれた。ロシアは八月八日に宣戦していたが、それは敵の崩壊するほんの一週間前だった。にもかかわらず、ロシアは交戦国としての完全な権利を主張した。
 日本の運命が原子爆弾によって決定したと考えるなら、それは間違いであろう。日本の敗北は最初の原爆が投下される前に確定していたのであり、圧倒的な海軍力によってもたらされたものなのである。最後の攻撃の拠点となっていた海洋基地を押え、突撃に出ることなく本土軍に降服を強制することができたのは、ただ海軍力のおかげだったのである。日本の艦船は壊滅していた。日本は五百五十万トン以上の艦船を擁して戦争に入り、その後、分捕りや建造によってそれをかなり増大させていたが、しかし輸送船団の組織や護衛が不十分で、有機的でなかった。日本艦船は八百五十万トン以上が沈められたが、そのうち五百万トンは潜水艦の犠牲になった。同様に海に依存している島国としてのわが国は、この教訓を読みとることができる。われわれがUボートを制圧していなかったら、われわれ自身の運命がどうなったかを理解することができる。<チャーチル『第二次世界大戦』4 河出書房 p.436>>

参考 原爆使用で米英が合意

 その一方、チャーチルはポツダム会談でトルーマンの原子爆弾を対日戦を終わらせるために使用するという提案に全面的に賛成した。広島・長崎への原爆投下は、実行国はアメリカであるが、連合国全体の合意で行われたこと、またトルーマン、チャーチルの意図にはソ連のアジアでの発言力を封じるというもくろみがあったことも重要である。
(引用)(トルーマン)大統領は直ちに会談するため私(チャーチル)を呼んだ。彼はマーシャル将軍とリーヒ提督を同席させた。このときまで、われわれは激烈な空襲と大部隊の進攻とによって日本本土を攻撃するという考えを固めていた。まっとうな戦闘においてのみならず、あらゆる穴や防空壕においても、サムライの捨身精神で死ぬまで戦う日本軍の無謀な抵抗のことを、われわれは考えていた。私の心には沖縄の情景が浮かんでいた。そこでは数千名の日本人が、指揮官たちがハラキリの儀式を荘重に行なった後、降服を選ばずに一列になって手榴弾で自爆する光景であった。日本軍の抵抗を一人ずつ押え、その国土を一歩ずつ征服するにほ、百万のアメリカ兵の命とその半数のイギリス兵の生命を犠牲にする必要があるかもしれなかった。もしイギリス兵を日本に上陸させることができても、イギリスの犠牲はもっと多くなるかもしれなかった。なぜなら、われわれは苦悩をともにする覚悟でいたのである。いまやこの悪魔のような情景はすっかり消えてしまった。それに代って、一、二回の激烈な衝撃のうちに全戦争が終結する光景が浮かんだ。それは実際、快く輝かしいものに思われた。私が瞬間に思い浮かべたのは、私が常にその勇気に感嘆してきた日本人が、このほとんど超自然的な兵器の出現のなかに彼らの名誉を救う口実を見出し、最後の一人まで戦って戦死するという義務から免れるだろうということだった。
 さらに、われわれはロシアを必要としなくともよくなった。対日戦の終結はもはや、最後の恐らく長引くであろう殺戮のために、ロシア軍を投入することに依存するものではなくなった。われわれは彼らの助力を乞う必要はなかった。したがって一連のヨーロッパ問題は、このような利点と国際連合の広い諸原理にのっとって討議されうることになった。
 われわれは突如として、極東における殺戮戦の短縮に恵まれ、ヨーロッパにおけるはるかに幸福な見通しを与えられたように思われた。アメリカの友人たちの心のなかにも、このような考えがきっと浮かんだことと思う。ともかく、原子爆弾を使用すべきかどうかについては、一刻の議論の余地もなかった。一、二度の爆発の犠牲によって圧倒的な力を顕示し、それによってぼう大な無制限の殺戮を回避し、戦争を終わらせ、世界に平和をもたらし、苦悩する人民に治療の手を与えるということは、われわれがあらゆる労苦と危険を経験してきた後では、奇跡的な救いのように思われた。<チャーチル『第二次世界大戦』4 河出書房 p.432-433>

終戦の詔書

1945年8月14日、日本が「ポツダム宣言」の受諾を天皇の詔勅として宣言した文書。鈴木貫太郎首相以下も署名し、日本が正式に無条件降伏することを内外に示し、国民には翌15日に天皇が自ら放送(玉音放送)して発表した。

昭和天皇の詔書

 8月14日に終戦の詔書に署名し、翌15日に「玉音放送」された昭和天皇の「終戦の詔勅」は、毎年の8月15日になるとテレビでもその「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び・・・」の部分が繰り返し流され、天皇のあの独特の調子と、皇居前で土下座して泣いている女性たちの映像と共に、私たちの耳と目に焼き付いている。
 少なくとも太平洋戦争は天皇の詔勅によって始められたから、その終結も天皇の詔勅によってなされなければならなかった。そこには天皇個人の思いも反映していたであろうが、基本は閣議を経て決定された、国家意思としての「敗北宣言」であったことは認めなければなるまい。それではどのようなことが語られていたのか、見ておこう。読みやすくするためカタカナをひらがなにし、改行・句読点を加え、難しい語句には意味を( )で補った。

参考 終戦の詔書(読みやすく改訂)

 ちん(天皇の自称)深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み、非常の措置を以て時局を収拾せんと欲し、ここに忠良なるなんじ臣民に告ぐ。
 朕は帝国政府をして米英支蘇四国(アメリカ・イギリス・中国・ソ連)に対し、この共同宣言(ポツダム宣言)を受諾する旨、通告せしめたり。
 抑々そもそも帝国臣民の庸寧(安全)を図り、万邦共栄のたのしみともにするは皇祖皇宗の遺範にして朕の眷々措けんけんおかざる所、さきに米英二国に宣戦せる所以ゆえんも亦実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾しょき(望むこと)するに出で、他国の主権を排し、領土を侵すが如きは、もとより、朕が志にあらず。然るに交戦すでに四歳(年)をけみし(過ぎ)、朕が陸海将兵の奮戦、朕が百僚有司の励精、朕が一億衆庶の奉公、各々最善を尽せるにかかわらず、戦局必ずしも好転せず、世界の大勢また我に利あらず、加之しかのみならず敵は新に残虐なる爆弾を使用してしきり無辜むこ(罪のない人々)を殺傷し、惨害の及ぶ所、眞に測るべからざるに至る。
 しかも尚交戦を継続せんが、ついに我民族の減亡を招来するのみならず、しいて人類の文明をも破却すべし。かくの如くは朕、何を以て億兆の赤子を保し、皇祖皇宗の神霊に謝せんや、是れ朕が帝国政府をして共同宣言に応せしむるに至れる所以なり。
 朕は帝国と共に終始東亜の解放に協カせる諸盟邦に対し、遺憾の意を表せざるを得ず。帝国臣民にして戦陣に死し、職域に殉じ、非命にたおれたる者、および其の遺族に想を致せば、五内ごだい(身も心も、の意味)爲に裂く。且つ戦傷を負い、災禍を蒙り、家業を失いたる者の厚生に至りては、朕の深く軫念しんねん(心配するという意味の皇帝用語)する所なり。おもふに今後、帝国の受くべき苦難は固より尋常にあらず、爾臣民の衷情も、朕善くこれを知る。然れども朕は、時運のおもむく所、堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、以て万世の為に太平を開かんと欲す。
 朕は茲に国体を護持し得て、忠良なる爾臣民の赤誠(忠誠心)に信倚しんい(信頼)し、常に爾臣民と共に在り、若しそれ情の激する所、みだりに事端を滋く(難しく)し、或は同胞排擠(排除)互に時局を乱り、為に大道を誤り信義を世界に失うが如きは朕、最も之を戒む。
 宜しく挙国一家、子孫相伝へ、確く神州の不滅を信じ、任重くして道遠きをおもひ、総力を将来の建設に傾け、道義を篤くし、志操をかたくし、誓て国体の精華を発揚し、世界の進運に後れざらんことを期すべし。
 爾臣民、これく朕が意を体せよ。
  御名ぎょめい 御璽ぎょじ
 昭和二十年八月十四日 以下、内閣総理大臣鈴木貫太郎以下、閣僚の署名。
 → 国立国会図書館 資料と解説 終戦の詔書

玉音放送の意図

 この文は「終戦」の詔書と言われ、「敗戦」・「降伏」という文字は直接使われていない。しかし、「ポツダム宣言を受諾す」という文言で、無条件降伏を受けいれたことを表明している。回りくどい言い方だが、これが日本の歴史上初めて、天皇がマイクの前に立ってその声が全国に流れたとき、国民は「敗戦」であり、無条件降伏であることを認識した。これを放送しようというアイディアは、昭和天皇自身から出されたと言われており、政府がそれを承認したが、軍の一部に強硬な反対があり、その録音音源盤を奪取しようとする一部将校がNHKなどを襲撃したが失敗したことは、「日本のいちばん長い日」として、半藤一利の著作や映画でおなじみである。

終戦の詔勅の意図

 この文言は、天皇・内閣・軍部のそれぞれの意図が巧みに盛り込まれおり、多くの問題を含んでいる。まず、戦争目的を「帝国の自存と東亜の安定」として開戦の詔勅に対応させ、侵略の意図や天皇みずからの戦争責任には触れていない。また、ポツダム宣言はアメリカ・イギリスと共に中華民国が加わって出されているが、太平洋戦争以前の中国との戦争については触れられていない。そして敗戦の理由は「戦局が好転せず、世界の大勢も利がなかったこと」と「敵は新に残虐なる爆弾(原子爆弾)を使用した」ことを挙げるのみである。これらは、戦後の「天皇には戦争責任がない」という主張や「この戦争は侵略戦争ではなく、自衛のためのやむを得ない戦争」だったという論点の出発点となっている。<終戦の詔書の詳しい分析は、小森陽一『天皇の玉音放送』2003 五月書房 を参照。同書には昭和天皇の玉音放送を収めたCDが付属している。>
 たしかに「終戦の詔書」には、見過ごせない問題を含んでいるが、当時としては「国体を護持し・・・」とか「確く神州の不滅を信じ・・・」などの文言は致し方なかったとすべきであろうし、それよりも「大道を誤り信義を世界に失うが如きは朕、最もこれを戒む」という天皇の言葉は素直に受け取っていいのではないだろうか。再び戦争への道を歩もうとすることは天皇の意図ではない、と読み取れることを確認しておこう。

日本の降伏文書

1945年9月2日、東京湾上のアメリカ軍艦ミズーリ号において、日本代表と連合国代表との間で日本の降伏に関する文書が署名され、日本の無条件降伏が確定した。

降伏文書への署名

降伏文書署名
ミズーリ号上で降伏文書に署名する重光葵。机の向こうに立つのがマッカーサ。その背後に連合国各国の代表が並ぶ。
 1945(昭和20)年9月2日、日本の全権とアメリカ・イギリス・中国・ソ連などの連合国代表によって調印された、日本がポツダム宣言を受諾し、無条件降伏を認めた文書。署名したのは、日本側が外務大臣重光葵しげみつまもると大本営代表の梅津美治郎うめづよしじろう、連合国軍司令官としてマッカーサー、アメリカ代表としてミニッツ提督、中国が徐永昌、イギリスがフレーザー、ソ連代表がデレヴヤンコ、などなど。

参考 降伏文書

 読みやすくひらがな混じり文とし、一部省略した。
  • アメリカ・中華民国・イギリス三国の首班が1945年7月26日「ポツダム」に於て発し、後にソ連が参加した宣言の条項を、日本国天皇、日本国政府及び日本帝国大本営の命に依り、かつこれに代わり受諾する。四国は以下、連合国と称す。
  • 日本帝国大本営並びに何れの位置に在あるを問はず、一切の日本国軍隊及日本国の支配下に在る一切の軍隊の連合国に対する無条件降伏を布告する。
  • 何れの位置に在るを問はず、一切の日本国軍隊及び日本国臣民に対し敵対行為を直ちに終止すること、・・・を命じる。
  • 日本帝国大本営が何れの位置に在るを問はず、一切の日本国軍隊及び日本国の支配下に在る一切の軍隊の指揮官に対し、・・・無条件に降伏すべき旨の命令を直に発することを命じる。
  • 一切の官庁、陸軍及海軍の職員に対し、連合国最高司令官が本降伏実施の為適当なりと認めて・・・発せしむる一切の布告、命令及び指示を遵守し、且これを施行することを命じる。・・・
  • 「ポツダム」宣言の条項を誠実に履行すること、並に右宣言を実施するため連合国最高司令官又は其の他特定の聯合国代表者が要求すること・・・かつ一切の措置を執ることを天皇、日本国政府及びその後継者の為に約束する。
  • 日本帝国政府及び日本帝国大本営に対し、現に日本国の支配下に在る一切の連合国俘虜及び被抑留者を直ちに解放すること・・・を命じる。
  • 天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、本降伏条項を実施するため、適当と認むる措置を執る連合国最高司令官の制限の下に置かれれるものとする。
 署名者は日本が「大日本帝国天皇陛下及び日本国政府の命に依り其の名に於て、重光葵」と「日本帝国大本営の命に依り且其の名に於て、梅津美治郎」・連合国側が連合国最高司令官 ダグラス・マックアーサー、合衆国代表者 C.W・ニミッツ、中華民国代表者 徐永昌、イギリス代表者 B.フレーザー、ソ連代表者 デレヴヤンコ。以下、オーストラリア・カナダ・フランス・オランダ・ニュージーランド代表が署名。国立国会図書館 憲法条文/重要文書 降伏文書
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書籍案内

チャーチル
佐藤亮一訳
『第二次世界大戦4』
河出文庫

半藤一利
『日本のいちばん長い日(決定版)』
文藝春秋社

小森陽一
『天皇の玉音放送』
2003 五月書房