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拒否権

国際連合の安全保障理事会の議事決定に際し、常任理事国(五大国)に認められている権利。常任理事国5ヶ国のなかで1国でも反対すれば議決とならない。アメリカ、ソ連(その後継国家ロシア)がたびたび拒否権を行使したため安保理決議の成立が拒まれた。

 国際連合の最重要機関である安全保障理事会の常任理事国の5カ国に認められている権利。国際連合憲章に規定されており、安全保障理事会に付託された国際紛争の解決については、5大国の全員一致を原則として、1ヵ国でも反対すれば可決されないこととした。
 安全保障理事会の決定に正当性を持たせ、実効力を強める措置として考案されたものであったが、ダンバートン=オークス会議での国際連合憲章を検討する過程で米ソ間に意見の違いが明確となった。アメリカ・イギリスは拒否権には否定的(拒否権を認めたとしても重要事項だけに限定しようとした)であったが、ソ連は拒否権の必要性を主張した(すべての事項で拒否権を認めよと主張した)。解決はヤルタ会談に持ち越され、イギリスは当初アメリカに同調していたが、チャーチルがソ連を引き込むには妥協すべきであるという意見に変化し、妥協点を見いだし最終合意した。妥協点は、自国が直接関わる紛争の場合は棄権する(棄権は評決に加わらず反対票とはならない)こと、手続き問題では拒否権を行使できないことの二点を認めたことである。この拒否権は、国際連合を成立させるための米ソの妥協の産物であったが、冷戦時代には米ソが互いに拒否権を行使したために安全保障理事会の機能がたびたびマヒしてしまうこととなり、大きな争点となった。<明石康『国際連合 軌跡と展望』2006 岩波新書などによる>

拒否権が認められた背景

 安全保障理事会の常任理事国に拒否権を与える原案については、サンフランシスコ会議でも中小国から異論が出され、拒否権を制限する修正案が出されたが、大国間の協調なしには国連の存続自体が危うくなると言う現実的判断が大勢を占め、原案どおりで可決された。アメリカ・ソ連という二大国をつなぎ止めておく妥協の産物であったともいえる。

拒否権行使の実態

 安全保障理事会における拒否権行使の実態は、国連創設から1969年まではその行使回数はのべ115回、うちソ連は108回で圧倒的多数を占める。アメリカはゼロだった。アメリカが初めて行使したのは1970年代、南ローデシア(現ジンバブエ)問題に関してである。次いで1972年、イスラエルによる67年の停戦協定違反を非難する決議に対してであった。このころから拒否権の行使が急増し、それも中東問題でアメリカがイスラエルを擁護するためのもの(2004年までにアメリカが行使した約80回のうち、中東問題で約40回以上となる)。これはアラブ系の多数が占める総会でのアメリカの孤立を深める結果となった。<最上敏樹『国連とアメリカ』2005 岩波新書 p.157>

中国・ロシアによる拒否権行使の急増

 国連の安全保障理事会での対立構図は、時代と共に変遷している。