ベルリン封鎖
東西冷戦のなか、1948年6月、西側の通貨改革に反発したソ連がベルリン封鎖を実施した。孤立した西ベルリンに対し、アメリカは大空輸作戦で物資を投下し、危機を救った。

ベルリン封鎖
アメリカの大空輸作戦
ソ連は西ベルリンに新通貨ドイツマルクが導入されるとだたちに西ドイツからベルリンにつながるすべての道路・鉄道・水路を閉鎖した。ベルリンは4ヵ国の共同管理とされていたが、全体ではソ連占領地域内にあるので、スターリンは閉鎖によって西側三国管理地区(西ベルリン)への食糧・石炭・医療用品・生活用品をストップしてアメリカ軍など西側の占領部隊が撤退せざるを得なくなると考えた。これに対して米軍司令官クレイ将軍は、物資の空輸による補給を決意、「陸の孤島」西ベルリンへの空輸を実施した。このアメリカ空軍による「大空輸作戦」は6月末より15ヶ月にわたり延べ27万回、総輸送量183万トンに達し、西ベルリンの市民生活と占領軍を守った。最初の核戦争危機
この1948年2月にはチェコスロヴァキアのクーデタで共産党政権が成立したことで、アメリカのヨーロッパに於ける共産主義勢力の伸長に対する警戒は高まっていた。6月のソ連によるベルリン封鎖からベルリン危機が悪化すると、7月16日、アメリカはイギリスに原爆搭載が可能な戦闘機B37をはじめて移動させた。これは訓練行動と報じられ、実際に原発は搭載していなかったが、60機にものB27の移動は、実践時の使用を含むもので、冷戦期の核戦争の最初の危機であった。<紀平英作『歴史としての核時代』世界史リブレット 1998 山川出版社 p.82>危機回避
世界は米ソの全面対決への展開を恐れたが、ソ連のスターリンが譲歩し、国連の場で両国外相による交渉が行われ、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)(西ドイツ)が樹立された直後の1949年5月11日、ベルリン封鎖を解除した。 → ベルリン問題注意点 ベルリン封鎖(1948年6月~49年5月)と「ベルリンの壁」の建設は別なことなので注意しよう。ベルリンの壁とは、1961年にソ連および東ドイツ当局が、東ベルリンから西ベルリンへの脱出者の増加を食い止めるために行ったことであり、1989年11月まで東西対立の象徴として存続した。