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コンゴ動乱

1960年、ベルギー領コンゴの独立直後から始まった内乱。旧宗主国ベルギーとアメリカが介入し激化した。独立指導者ルムンバが殺害された。

 1960年の独立から始まり、65年まで続いたコンゴの内乱。ベルギー領コンゴは、フランス植民地が次々と独立していくことに刺激されて、独立を求めて暴動を起こすようになった。ベルギー政府は1960年6月30日にコンゴ共和国(後に国名をザイールに変更。現在はコンゴ民主共和国コンゴ共和国とは違うので注意。)の独立を認め、ルムンバが首相となった。 → 1960年アフリカの年

ベルギーの介入 ルムンバ殺害

 しかしベルギーは独立を認めたものの南部の豊かな鉱山地帯(有数の銅、コバルトの産地)であるカタンガ州を分離独立させて影響力を残そうとして軍隊を派遣、1960年7月6日、チョンベらに反政府活動に扇動させ、内乱を起こさせた。ルムンバは国連軍の派遣を要請したが、国連(ハマーショルド事務総長)はカタンガ州と国際鉱山資本を保護するという態度をとり、9月に国連とアメリカの後押しを受けた軍部のモブツ将軍がクーデタを起こして12月1日にルムンバを逮捕した。後にルムンバは殺害され、動乱が拡大した。カタンガ州分離派の背景には豊かな資源をねらう国際的鉱山資本の策謀があったという。

Episode 国連事務総長の遭難

 コンゴ動乱に際して国際連合は秩序回復のために治安維持部隊を派遣することになり、1962年、事務総長ハマーショルドが現地に飛んで折衝に当たった。しかしハマーショルドはコンゴで乗り込んだ飛行機が墜落して死亡した。当時は独立を妨害するコンゴ鉱山会社の陰謀説が流れた。ハマーショルドはスウェーデン出身で経済学者であったが国連に入り、事務総長としてスエズ問題の処理にあたり、その公正で誠実な人柄は国際的な信頼を受けていた。しかしカタンガ州分離勢力とも話し合うなどの姿勢は、ルムンバからはアフリカ独立への国連の妨害であると非難された。

独裁政治とその崩壊

 1965年に軍部のモブツ将軍が再びクーデタで政権を握り、大統領となって軍政を敷き、一応動乱は収拾された。モブツは独裁体制を強め、一種の鎖国政策を布いたため経済成長が止まり貧困が続いた。この間、71年にはコンゴ川をザイール川に改めたのにともない、国名をザイール共和国に変更した。モブツ独裁政権はその後も続いたが、1997年、コンゴ・ザイール解放民主勢力連合が首都キンシャサを制圧、モブツ政権を倒し、国名を再びコンゴに戻した(コンゴ民主共和国)。

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