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赤色クメール/クメール=ルージュ

カンボジア内戦における共産勢力。ポル=ポト派が主導権を握り、1976~79年には極端な独裁政治が行われた。

クメール=ルージュと言われるグループで、クメールがカンボジアの古名、ルージュが共産主義を意味する赤を示す。もとはカンボジア共産党員でフランスに留学した、ポル=ポト、イエン=サリ、キュー=サンファンなどの過激な武力闘争を主張する人々を、あだ名を付ける天才だったシハヌークが「赤いクメール人」と呼んだことに始まる、蔑称であった。

カンプチア民族統一戦線

 1970年に親米右派のロン=ノルがシハヌークの外遊中にクーデタによって権力を奪取した。背後にはベトナム戦争で南ベトナム解放戦線のカンボジア国内通過を認めていたシハヌークを排除したいというアメリカの意図があった。ロン=ノル政権が成立すると、シハヌークは亡命先の北京から共産主義グループの赤色クメールに統一戦線結成を呼びかけ、シハヌークを代表とするカンプチア民族統一戦線を結成し、反米・反ロン=ノルの戦いを開始、これによってカンボジア内戦が開始された。

ポル=ポト派の恐怖政治

 クメール=ルージュを叩くためにアメリカのカンボジア侵攻が開始され、激しい空爆が加えられたが、彼らはジャングルに潜んで頑強に抵抗した。アメリカ軍・ロン=ノル政府軍と激しく戦うなかで、彼らは次第に民族主義的な性格を強め、ポル=ポトらの過激派が主導権を握っていったため、シハヌーク派との対立が深まった。1975年4月に首都プノンペンを掌握してロン=ノル政権を倒すに至ったが、翌76年にはシハヌークを監禁して権力を独占しポル=ポト政権を樹立した。
 ポル=ポト派は中国の毛沢東思想と文化大革命に強く影響され、貨幣制度の廃止などの極端な共産主義化を強行し、反対派を次々と処刑して恐怖政治を布き、また外国との関係を断って鎖国政策をとった。

ベトナム軍の侵攻

 隣国ベトナムで1975年、ベトナム戦争が終わり、ベトナム社会主義共和国が成立すると、カンボジアとの国境紛争が生じた。ベトナムはソ連との関係が深く、当時の中ソ対立がここにも持ち込まれ、親中国派のカンボジアのポル=ポト政権との関係が悪化、ついに1978年末から大規模なベトナム軍のカンボジア侵攻を開始、1979年1月にプノンペンを制圧してポル=ポト政権を追放し、ヘン=サムリン政権を樹立した。
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