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チャウシェスク

社会主義国ルーマニアで1965年から独自路線を推進したが、独裁政治に陥り、1989年の東欧革命の中で政権が倒され、民衆裁判で処刑された。

 第二次世界大戦後に社会主義国となったルーマニアの独裁的指導者。民族主義を鼓吹して支持を集め、独自の工業化を推進してソ連とも一線を画す自主外交を展開したが、独裁色が強くなり、1989年12月、ティミショアラで始まった民衆の反政府暴動の嵐の中で処刑された。
 チャウシェスク Ceauşescu は、1918年、ルーマニアのオルト地方の貧農の家に生まれ、マルクス主義を学び、共産党に加盟し、デジに見いだされ、1965年にその死去に伴い、45歳でルーマニア労働者党第一書記となり権力を継承した。彼はデジの経済独自路線、民族主義路線を継承しながら、巧みに民主化を抑え、「チャウシェスク・マシーン」といわれる一派を組織して独裁的な権力を強め、同年党名を共産党に戻すとともに書記長に就任し、党と国家機構を一体化させ(これを「織り合わせ」といった)、自ら国家元首を兼ねることとした。

自主外交

 ルーマニアの独裁権力を握ったチャウシェスクは、民族主義路線を強め、独自外交路線を鮮明にした。1967年には東ドイツの反対を押し切り西ドイツと国交を樹立、68年のソ連軍のチェコスロヴァキア介入(チェコ事件)にたいしてもソ連を批判し、軍隊を派遣しなかった。また同年8月にはニクソン・アメリカ合衆国大統領をルーマニアに招待し、ソ連を牽制した。1971年にはチャウシェスクは中国を訪問して大歓迎を受けたが、そのときニクソン訪中の工作をしたとも言われている。

個人崇拝の行き過ぎ

 チャウシェスクは、国内のハンガリー系住民などに対する迫害を強めるなどの方法で個人崇拝を巧妙に作り上げ、1974年には大統領となり、独裁権力を完全にした。その個人崇拝は、「チャウシェスク賛歌」を青少年に歌わせるまでになり、次第に反発が強まった。また、妻や子どもを政府の要職につけるなどの弊害も現れ、ついに1989年12月、民衆蜂起によってチャウシェスク独裁政権は崩壊する。<木戸蓊『激動の東欧史』1994 中公新書>

チャウシェスク政権崩壊

 1989年12月、その年の一連の東欧革命の最後にルーマニアの民主化暴動でチャウシェスク独裁政権が倒された。きっかけは12月16日、北部のティミショアラで、反政府活動家のハンガリー系牧師に対する警察の強制連行を阻止するために教会に集まった市民に対し、チャウシェスク政権は武力弾圧を命じたことだった。大統領は非常事態宣言を出し鎮定をはかったが、ティミショアラの市民集会は数万の規模にふくれあがった。チャウシェスクは21日、対抗するためにブカレストで大統領支持の官製集会を開いた。
 大統領が演説を始めると、支持派であるはずの群衆の中から「チャウシェスク打倒!」「ティミショアラ!」の歓声が上がり、爆竹が鳴らされた。茫然自失する大統領の脇に控えた夫人エレナは「何か言いなさい、何か約束するのです」と夫を叱咤する。大統領やようやく児童手当の増額などでまかせの発表をしたが、怒声でかき消されてしまう。
 その夜、大統領官邸に民衆が押し寄せると、戒厳令を発布し、軍に発砲を命じたが軍は命令を拒否。逆に装甲車を連ねて民衆とともに官邸に迫ってきた。群衆が部屋になだれ込むとほぼ同時に、大統領夫妻は屋上からヘリコプターで脱出。しかし、車に乗り換えようとヘリコプターを着地させたところで夫妻は逮捕された。新政権が逮捕状を出したのである。その日12月25日、ある兵舎内でわずか45分間の軍事裁判にかけられた後、銃殺刑を即時執行された。そのときの法廷ビデオが後に西側に流出した。チャウシェスク夫妻は「この裁判は認めない」と抵抗しているが、裁判長が大統領夫妻の贅沢な日常の一方、多数の民衆が苦しい生活を強いられたと罪状をあげ、弁護人も「有罪を認めます」と発言、夫妻は裁判そのものを否定している様子が記録されている。<三浦元博、山崎博康『東欧革命』1992 岩波新書 p.209-217>
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書籍案内

木戸蓊
『激動の東欧史』
1994 中公新書

三浦元博・山崎博康
『東欧革命―権力の内側で何が起きたか』
岩波新書