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東方外交

1960年代後半から70年代初め、西ドイツのブラント首相が展開した、ソ連・東欧諸国との友好路線。

 1960年代後半から70年代初めにかけて、西ドイツのウィリー=ブラントが、初めはキージンガー大連立内閣の外相として、69年からは首相として展開した、ソ連=東欧の共産圏と積極的に話し合いを進めた外交政策を東方外交という。
 それまでの西ドイツの対共産圏外交は、東ドイツを国家として認められない建前から、ほとんど行われていなかったが、ブラントはドイツが分断国家であり、東の共産国家と隣接しているという現実をまず認めようという現実主義から出発し、「接近による変化」を生み出そうとした。この考えは腹心のエゴン=バールが唱えたもので、また同時に世界的な緊張緩和(デタント)の流れに添ったものであった。
 その主な成果として1970年8月ソ連=西ドイツ武力不行使条約1970年12月西ドイツ=ポーランド国交正常化条約1972年12月21日東西ドイツ基本条約などがあげられる。当時は直接的に東西ドイツの統一をめざすものではなかったが、ここから約20年という意外な急テンポでドイツ統一が実現することとなった。
 1974年のブラント辞任後は同じ社会民主党のシュミットが東方外交を継承した。1982年からはキリスト教民主同盟のコール内閣に代わったが、コール内閣は基本的には東方外交を継承し、1990年にドイツ統一を実現させる。
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