マルコス
1965~86年、フィリピンの大統領として開発独裁の政治を進めた独裁者。
フィリピンの大統領として約20年(1965~86)にわたって君臨し、典型的な開発独裁といわれる体制を維持したが、1986年に民衆の運動によって失脚し、アメリカに亡命した。
1965年にフィリピン大統領に当選。69年には再選され、憲法では三選が禁止されていたにもかかわらず戒厳令を発布して強引に新憲法を制定、74年に三選を果たした。マルコスの開発独裁政策は、外国資本と結んで開発を進めていくもので、当初から利権の口利きで私腹を肥やし、ウラ社会の人脈で反対派を黙らせるという手段で権力を握った。またベトナム戦争を展開中のアメリカを巧妙に利用し、基地提供などの見返りを得ながら、体制を固めていった。その結果、マルコス政権の長期化のもとで、政治家、官僚の腐敗が進行した。フィリピン財政は外債に依存し、国民生活は苦しくなったにもかかわらず、マルコス夫妻はマラカニアン宮殿(大統領府)で豪華な生活を楽しんでいた。
1965年にフィリピン大統領に当選。69年には再選され、憲法では三選が禁止されていたにもかかわらず戒厳令を発布して強引に新憲法を制定、74年に三選を果たした。マルコスの開発独裁政策は、外国資本と結んで開発を進めていくもので、当初から利権の口利きで私腹を肥やし、ウラ社会の人脈で反対派を黙らせるという手段で権力を握った。またベトナム戦争を展開中のアメリカを巧妙に利用し、基地提供などの見返りを得ながら、体制を固めていった。その結果、マルコス政権の長期化のもとで、政治家、官僚の腐敗が進行した。フィリピン財政は外債に依存し、国民生活は苦しくなったにもかかわらず、マルコス夫妻はマラカニアン宮殿(大統領府)で豪華な生活を楽しんでいた。
戒厳令
国民的な人気のあったベニグノ(ニノイ)=アキノは、マルコスの非民主性を激しく論難した。マルコスは1971年、学生の反マルコスのデモが起きると戒厳令をしき、ただちにアキノを逮捕。裁判で死刑を言い渡したが、国際世論に押されてその病気治療にアメリカ出国を認めた。1970年代には、北部では共産党系の新人民軍の反政府活動、南部のミンダナオ島でイスラーム教徒であるモロ民族解放戦線の分離独立運動が激化していた。政権の崩壊
1983年、アキノが治療を終えて帰国したところ、マニラ国際空港で警察によって殺害されるという事件(ベニグノ=アキノ暗殺事件)が起き、一気にマルコス体制への反発が強まる。1986年の大統領選挙でアキノの未亡人コラソン=アキノが当選したことを機に爆発した「ピープルパワー革命」によってマルコス夫妻はハワイに亡命し、その独裁体制は終わった。マルコスは1989年、亡命先のハワイで死亡した。Episode 大統領夫人の靴、3000足
マニラでピープルパワー革命が爆発し、民衆はマラカニアン宮殿に突入した。すでに脱出した大統領夫人イメルダの部屋から発見されたものは、3000足にもおよぶ外国製の豪華な靴をはじめ、衣装部屋一杯になった贅沢な装飾品の数々だった。貧しい暮らしを送っていたマニラの民衆はその豪華さに驚いたという。ところがイメルダは89年に夫が死ぬとフィリピン帰国を望み、92年にはそれを実現し、95年には何と下院議員に当選して中央に復帰した。しかし、2001年、不正蓄財の疑いで検挙され、監獄にはいるという波乱の人生を送っている。