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ウルグアイ

南米大陸のスペイン植民地であったがアルゼンチンとブラジルの間にあったので双方からの干渉が強く、独立が遅れた。ブラジルに一時支配されたが、1828年に実質分離、1830年に憲法を制定して独立した。民主主義、平和主義を維持しながら、福祉国家を建設した。1930年に第1回サッカーワールドカップ開催国で優勝。2005年から左派政権が続いている。

 ウルグアイは、南アメリカのラプラタ川河口右岸、ブラジルとアルゼンチンの間にある。ポルトガル植民地であったブラジルと、スペイン植民地であったラプラタ副王領(アルゼンチン)の利害の対立する地域にあり、独立した両国の緩衝地帯として設けられたという経緯がある。首都は港であるモンテビデオ。面積は旧スペイン系植民地から独立した国としては最小の17万平方km、人口は約333万。正式国名は「ウルグアイ東方共和国」というが、東方とはウルグアイ川の東側の意味。民族はスペイン系など南欧系が多く、公用語もスペイン語。 → 現在のウルグアイ

スペインの植民地となる

 1494年のトルデシリャス条約で取り決められた植民地分割線より西側にあったので、スペインが領有することになった。1516年、スペイン人が初めてウルグアイ川の東側に入植し、バンダ=オリエンタル(東岸)と名づけた。地下資源が乏しかったため長く放置されていたが、1680年にポルトガル人がブラジル側から進出し、その後両者の争いが激しくなり、1777年にスペイン領であることが確定した。

緩衝国家の誕生

 1810年にアルゼンチンで独立運動が起きると、それに呼応してこの地でも独立運動が起きたが、独立後は連邦制を主張しブエノスアイレスの中央政府と対立した。その隙に再びポルトガルが進出し、1821年、植民地ブラジルの一州に併合してしまった。翌年、ブラジルは独立するが、この地はその一州とされるとスペイン系住民が24年に独立運動を開始、それを支援したスペインとポルトガルの間で戦争となった。この地方への経済進出をもくろむイギリスが仲裁に入り、1828年にこの地を「ウルグアイ東方共和国」として独立させることで両国は講和し、1830年に憲法を制定し初代大統領を選出した。

「南米のスイス」

 独立後はアルゼンチンの内紛も影響して党派対立が続き、30年代から50年代にはアルゼンチンとの戦争が続いた。しかし、19世紀後半になると有刺鉄線の発明や冷蔵庫、冷凍船の普及によって畜産業、食肉加工業が成長し、またヨーロッパからの新たな移民も増加し、次第に安定を取り戻した。20世紀に入り内戦を終わらせたバッジェ大統領(任期1903-07,1911-15)は、スイスを範にとった福祉国家の建設を目指し、さらに鉄道や金融の国有化、民族主義と同時に労働者保護の強化などの民主化が一定の効果を上げ「南米のスイス」とも言われた。バッジェは「近代ウルグアイの父」と言われ、ラテンアメリカの先駆的な社会改革を成し遂げた。

Episode 第1回ワールドカップの開催地で優勝国

(引用)ウルグアイ人は口をそろえて“サッカーの母がイングランドなら、ウルグアイはサッカーの父だ”という。第1回ワールドカップは1930年、人口わずか150万の南米大陸最小の国、ウルグアイで開かれた。しかもウルグアイはこの大会で優勝、初代世界チャンピオンの座に輝いている。・・・ウルグアイ大会の決勝会場センテナリオは“100周年”の意味だ。ウルグアイ政府はサッカーの世界大会を、建国百周年記念の国家行事の中心として開催した。・・・ウルグアイは1828年、ブラジル・アルゼンチン両国による戦争の結果、ウルグアイ東方共和国として独立。1830年の憲法制定・初代大統領選出から数え、1930年が実質的な建国百周年だったのだ。独立前はたんにバンダ=オリエンタル(東部地帯)と呼ばれる荒地だったが、19世紀末の有刺鉄線や冷蔵庫の発明で、羊毛・牛肉の大輸出国となった。労働力としてイタリアやスペインなどから移民を受け入れた結果、約50年間に人口が三倍に急増、首都モンテビデオは過半数が「外国生まれ」だった。経済的な繁栄とともに、建国百周年を前に南米初の議会制民主主義や八時間労働制など進歩的な制度が導入された。しかし、国民はなかなか自分はウルグアイ人だ、という自覚や誇りを持てずにいた。そうした国民をまとめるための最も有効な手段がサッカーだった。<千田善『ワールドカップの世界史』2006 みすず書房 p.26-27>

Episode アルゼンチンとのサッカー戦争

 アルゼンチンとウルグアイはサッカーで互角の戦いを続けていた。1916年の第1回南米選手権ではアルゼンチンが勝ち、24年のパリ・オリンピック、28年アムステルダム・オリンピックではウルグアイが連続優勝した。「第1回ワールドカップは名実ともに真の世界チャンピオンを決する舞台となった。」7月30日の決勝で対戦した両国は4対2でウルグアイの勝利となった。
(引用)モンテビデオでは夜通し、優勝を祝う大騒ぎが続いた。対岸のブエノスアイレスでは、ウルグアイ領事館が数千人の群衆に襲撃され、警官隊が発砲するなど、こちらも深夜まで騒ぎが続いた。両国の対立は一時的に国交断絶にまで激化し、ラプラタ川をはさんでのサッカー戦争とまで呼ばれるほどだった。<千田善『ワールドカップの世界史』2006 みすず書房 p.28-31>

現在のウルグアイ

経済不安が続いたウルグアイでは軍部が台頭し、1973~84年の間、軍事政権が支配した。民政移行後も困難が続いたが、2005年には初の左派政権が成立した。

軍政下のウルグアイ

 しかし、ウルグアイは工業化の転換が遅れて経済停滞が続き、第二次世界大戦後は政情不安が頻繁に起こるようになり、左派ゲリラが活発になり、内戦状態となった。左派ゲリラの鎮圧のために軍が教化されていった。  左派ゲリラ討伐で発言力を強めた軍部は、1973年にクーデターによって政権を奪った。ウルグアイは以後1984年まで、軍政下に置かれ、民主主義と人権は制限され「南米のスイス」の実態は無くなってしまった。1976年に大統領となったメンデスは、チリのピノチェト政権と同じように新自由主義経済政策を採用して経済成長を図った。軍事政権が軍政を正当化するために憲法改正を目論んで国民投票に持ち込んだが、国民の多数が反対して失敗し、それを機会に軍政批判が強まった。

民政移管

 1985年に民政に移行して民主化を進め、政治の安定と経済の立て直しを図ったが、伝統的な二大政党であるコロラド党(自由主義)とブランコ党(保守主義)の対立による不安定な政情が続いた。それでも国際的に開かれた国を目指し、1986年から95年にかけて、ウルグアイの保養地プンタ=デル=エステでIMF-GATT体制のもとでの多角的貿易交渉であるウルグアイ=ラウンドを開催した。また、1991年には南米南部共同市場(メルコスル)に加盟し(その本部はウルグアイの首都モンテビデオに置かれている)た。

ウルグアイ初の左派政権

 2005年、左派の拡大戦線の候補バスケスが大統領に選出された。ウルグアイでの伝統的な二大政党以外の、しかも初めての左派大統領の登場であった。バスケスは貧しい労組幹部の子で、少年時代から日雇い労働や新聞配達をして育ち、高卒後に就職してから夜間大学で学んで医者となった。選挙の勝利宣言では「大統領に就任しても、公務の合間を縫って、地域の診療所で医療活動を続ける」といった。一人あたり国民所得も識字率も南米で一番高く、中南米諸国で最初の議会制民主主義国であるウルグアイで、左派政権が誕生したことはラテンアメリカの激動を物語っている。<伊藤千尋『反米大陸』2007 集英社新書 p.23> → ラテンアメリカ
左派大統領の再選 バスケス大統領は政治・社会の民主化と南米南部共同市場(メルコスル)との関係の強化による経済の再生を掲げ、実績を残した。ウルグアイ憲法では大統領の任期は5年、再選は禁止されているので、2010年には同じく左派の拡大戦線から出たムヒカが当選した。ムヒカ大統領もバスケスの路線を継承し、左派への信頼をつなぎ留め、2014年11月30日に行われた大統領選挙では再びバスケスが立候補して当選、ウルグアイでは左派政権が継続することとなった。

Episode 世界で最も貧しい大統領

 2016年4月、来日したムヒカ元大統領は、テレビで取り上げられ、一躍有名になった。大統領公邸には住まずに質素な農園の自宅に住み、だれに会うのにもノーネクタイ、愛車はフォルクスワーゲンなどの暮らしぶりが紹介され、共感を呼んだようだ。彼が世界の注目を浴びたのは、ウルグアイ大統領在任中の2012年、ブラジルのリオデジャネイロで開かれた国連の「持続可能な開発会議」(Rio+20)での演説だった。そこでムヒカは、「私たちは発展のために地球に来たのではない、幸せになるために来たのだ」と、地球規模で経済発展を追い求めるグローバリズムという現代文明の病根を痛烈に批判した。 → 国連 リオ+20でのムヒカ大統領演説
 ホセ=ムヒカは「ぺぺ」の愛称で知られ、2010~15年に大統領を務め、大麻や中絶、同性婚の合法化などの政策で注目された。大統領辞任後も国会議員として活動していたが、免疫系の持病があり、年齢や新型コロナウィルスの影響で、2020年10月20日、政界を引退した。引退演説ではこう語ったという。
「若者たちに伝えたい。人生の勝利とは、金を稼ぐことではない。倒れても、何度も立ち上がりやり直すことだ」
「憎しみは愛のような炎だ。愛は創造的だが、憎しみは我々を滅ぼす。私の庭では、もう何十年も憎しみは育てていない」<朝日新聞 2020/10/22>

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ホセ・ムヒカ』
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