アテネ
古代ギリシアの代表的なポリス。典型的な民主政治が展開され、前5世紀にペルシア戦争に勝利、デロス同盟の盟主として全盛期となる。前5世紀末、スパルタとのペロポネソス戦争で敗れ、ギリシアの覇権を失ったが、その後もギリシア文明の中心都市として存続した。前338年、カイロネイアの戦いで敗れてマケドニアの支配下に入り、ヘレニズム時代を経て、前2世紀にはローマ領となる。ローマ帝国分裂後はビザンツ帝国の支配を受け、15世紀にオスマン帝国に征服された。1830年にギリシア王国が独立、1834年にその首都となり、現在もギリシア共和国の首都である。
現在のアテネ GoogleMap
アテネが支配したアッティカ地方は、広さは佐賀県ぐらい、人口は最盛期で市民は家族を含み12万(そのうち、市民権を持つ成年男子は3万)。さらにメトイコイといわれた在留外人が3万、奴隷が8万人、合計で23万(前432年の推計)とされる。 → アテネ民主政
アテネの成立と民主政の発展
ポリスの形成 アテネはドーリア人の征服を受けず、以前から居住していたイオニア人が、集住(シノイキスモス)によって前800年頃までにポリスを形成させたと考えられている。他のポリスと同じく成立当初は王政であったが、前7世紀ごろまでに少数の貴族が実権を握る貴族政に移行し、続いてポリスの平民が重装歩兵・密集部隊の中核となって軍事力を担うようになった。民主政の成立 貴族と平民は次第に抗争するようになる中、 前621年のドラコンの立法で平民は法廷に守られるようになり、さらに前594年のソロンの改革によって両者の争いが調停されると共に平民の没落を防止する措置が執られ、民主政の法的整備が進んだ。前6世紀中ごろのペイシストラトスによる僭主政が現れたが、前508年のクレイステネスの改革で僭主の出現を防止する措置がとられて、典型的なアテネ民主政が成立した。
ペルシア戦争
アケメネス朝ペルシア帝国の支配に対してイオニア人の植民都市がイオニアの反乱を起こすとアテネはその支援に乗り出したことからペルシア戦争が前500年に勃発した。アテネは,有力ポリスのスパルタとともにギリシア軍の中核として戦った。苦戦を強いられながら前490年のマラトンの戦いではアテネの重装歩兵が活躍してペルシア軍を撃退した。480年のサラミスの海戦ではアテネのテミストクレスの指揮する三段櫂船が活躍して勝利し、翌479年には陸上ではスパルタ軍がプラタイアの戦いでペルシア軍を破り、ペルシア帝国に併合される危機から脱した。これはアテネの民主政の勝利ともいうことができる。五十年期
前479年でペルシア戦争の本格的戦闘は終わったが、まだ交戦状態は続いた。またギリシア側ではペルシア戦争後の主導権を巡って、アテネとスパルタの対立が表面化し、その情勢を見てペルシア帝国が介入、複雑な外交交渉が続いた。この前479年から前431年のペロポネソス戦争勃発までの50年間を「五十年期」といい、それがアテネの全盛期にあたっている。前470年にはサラミスの海戦で名声を挙げたテミストクレスが武勲を鼻にかけて傲慢になり、陶片追放でアテネを追われた。デロス同盟と「アテネ帝国」化 ペルシア帝国の再襲来の恐れがあるなか、強大な海軍力を持つアテネの存在が重くなると、前478年にアテネはエーゲ海域の諸ポリスとの間でデロス同盟を結成した。その本部をデロス島に置き、当初は同盟の金庫もデロス島に置かれたが、アテネの優位が強まる中で、金庫はアテネに移されてアテネが管理するようになり、またアテネは他のポリスに対してアテネの守護女神アテナに対する貢納金という形で課税し、統制を強めた。またデロス同盟では市民権を有するのはアテネ市民のみとされ、他のポリス市民は外国人として扱われるなど、アテネの一強支配が成立、「アテネ帝国」といわれる状態となった。スパルタはデロス同盟の結成に反対はしなかったが、アテネの強大化が進むにつれてその関係は悪化した。
スパルタとの関係悪化 前464年にはスパルタで大地震が発生、同時にヘロットの大反乱がおこった。アテネの親スパルタ派キモンはスパルタの要請を受け4千人の重装歩兵を派遣し、ヘロットの反乱を鎮圧した。ところが、前461年には、スパルタがアテネ軍の駐留を危険視して撤退を申し入れたため、キモンの面目はつぶれ、キモンは陶片追放によって追放された。前449年、十年の追放を終えてアテネに戻ったキモンは艦隊を率いてペルシア帝国からキプロス島を攻撃。キモンは途中で死んだがアテネ海軍はキプロス島の奪回に成功した。 アテネはこの機会を捉え、対ペルシア、対スパルタの両面戦争に終止符を打ち、「カリアスの和約」でペルシア戦争は正式におわった。この間、若きペリクレスがあたらな指導者として登場した。
ペリクレス時代
ペリクレスは前443年、民会において将軍職(ストラテーゴス)に選ばれ、その後15年間にわたって重任され、アテネの大国化と民主化を進めた。ペリクレスは、クレイステネスの民主政をさらに発展させ、民会を最高機関とする民主政治の徹底を図り、役職への日当制、抽選制などを徹底し、市民権法を定めて市民の範囲を明確にした。この時代はアテネ民主政の全盛期となったが、その一方で、アテネは強大な海軍力を背景に、他のポリスに対する優位を確定し、ペルシア戦争が正式に終結してデロス同盟の名分はなくなったが、なお同盟を存続させ、盟主として主導権を維持した。また、ペリクレスはフェイディアスらに命じて、アクロポリスの丘にパルテノン神殿をあらたに造営した。この時代は文化史上もギリシア文化の全盛期であった。参考 ペリクレス時代のアテネを歩く
この前5世紀のペリクレス時代のアテネを訪ねるための旅行案内書という趣旨で書かれた『古代アテネ旅行ガイド』より。(引用)アテネは、もともとアクロポリスの周囲に発展した集落が拡大してできた都市で、地域のインフラストラクチャーがこれ以上の人口は支えきれなくなったところで、だいたいにおいてその拡大は止まった。この拡大の限界を示しているのが市を囲む城壁で、これを上から見ると、てっぺん(北側)が目立って張り出してはいるが、非常に大雑把に言って楕円形をしている。この形状からわかるように、アテネ市内にはいればアクロポリスはつねに1、2キロ以内の場所にあって、見逃したくても見逃しようがない。<F.マティザック/安原和見訳『古代アテネ旅行ガイド』2019 ちくま学芸文庫 p.106,108>以下、同書にはアゴラやアカデメイアなどの「名所」と、アテネの市民の暮らしぶりを「見てきたように」紹介しており、興味深い。この時期のアテネで活躍していた建築家フェイディアス、哲学者ソクラテス、歴史家トゥキディデス、さらにギリシア演劇の全盛期で悲劇のアイスキュロス、ソフォクレス、喜劇のアリストファネスらについても触れている。
アテネの衰退
デロス同盟を通したアテネの強大化に対して、ギリシア本土のペロポネソス半島南端に位置する大国であるスパルタは強く警戒するようになった。スパルタはすでに前6世紀にペロポネソス半島内のほとんどのポリスとの間でペロポネソス同盟を成立させていたが、アテネとデロス同盟の強大化に反発を強め、両陣営はついにペロポネソス戦争(前431年~404年)で衝突した。ペロポネソス戦争
ペリクレスは籠城作戦を採って防衛に当たり、民主政の危機であることを訴え、アテネの奮起を促した。その時の演説は全文がトゥキディデスの『戦史』に記されている。しかし、疫病が流行して市民の3分の1が死ぬという危機に見舞われ、自らも罹患して開始翌年に死去した。戦争が長期化する中、前421年には一時、和平が成立(ニキアスの平和)したが、アルキビアデスが主導した冒険的なシチリア島遠征作戦に失敗し、アテネは不利な戦いに追いこまれた。戦争が長期化する中、アテネ民主政の基盤であった平民層が没落、またデロス同盟諸都市も離脱して行き、一方のスパルタは、ペルシア帝国の経済支援を受けて海軍を増強したため、戦争継続は困難となっていった。ついに前404年、アテネ海軍はスパルタ海軍に敗れ、全面降伏してペロポネソス戦争は終結した。アテネの一市民として戦争に従軍したトゥキディデスは、この戦争の経緯を詳細な歴史書『戦史』に記録した。ペロポネソス戦争でスパルタに敗れたアテネは、在外資産と海外領のすべてを失い、領土はアッティカとサラミスだけに限定された。スパルタの指導に従うという条件でかろうじて独立は保ったが、ギリシアにおける覇権は失われた。
三十人僭主 また、ペロポネソス戦争の敗北を、無定見なデマゴーゴス政治家を出現させた民主政治に原因があるとする風潮が生じ、寡頭政治(少数者による統治)へと動き、スパルタ駐留軍の支援を受けたクリティアスなどの三十人僭主(独裁)政権が成立した。民主派は弾圧され、アテネから逃れなければならなかった。民主派のアニュトス(皮鞣業者でペリスレス後に登場したデマゴーゴスの一人とも目されている)は亡命先から仲間と共に武装してアテネに戻り、激しい内戦を戦って、前403年に三十人僭主政権を倒し、民主政を復活させた。ソクラテスが国法に反したとして裁判にかけられ、死刑となったのもこの時代、前399年のことである。
こうしてアテネ民主政は復活したが、ギリシア世界の主導権はスパルタやコリント、テーベなどに移っていく。しかし、このペロポネソス戦争後の前5世紀末から前4世紀のアテネは、哲学や演劇などの文化面ではむしろ全盛期を迎えることとなった。
アテネの文化の繁栄
前5~前4世紀を文化史上は古典期と言われ、アクロポリスのパルテノン神殿などの建築や彫刻、演劇、ソクラテス以下の哲学などギリシア文化がアテネを舞台に展開された。毎年3月に行われたディオニュソス神の祭典では演劇が上演されたこともあってギリシア演劇が盛んになり、三大悲劇作者といわれるアイスキュロス・ソフォクレス・エウリピデスや、アリストファネスなどの喜劇作者が輩出した。アテネでは多くのソフィスト(ほとんどはアテネ以外の出身者であったが)の活動があり、さらに後世に大きな影響を与えたソクラテス・プラトン・アリストテレスらもアテネで活動した。その活躍した時期はペロポネソス戦争後のアテネ民主政のむしろ衰退期であった。それでもアテネにはプラトンが創設したアカデメイアや、アリストテレスが創設したリュケイオンがあった。アカデメイアはビザンツ帝国時代の529年まで存続するなど、その後も学芸都市としてヘレニズム時代にかけて繁栄が続いた。
マケドニアに屈服
アテネはペロポネソス戦争の後も一ポリスとして存続したが、三十人僭主といわれる寡頭制支配が行われ、デマゴーゴスによる政治によって混乱が続いた。ギリシアのポリス世界におけるアテネの覇権も失われ、主導権はスパルタに移った。一時期アテネは海上支配の復活を試みコリント・テーベと同盟してコリント戦争(前395~387)でスパルタと戦ったが、覇権を回復することはなかった。ギリシアの諸ポリスに対するペルシア帝国の干渉が強まる中、覇権はさらにテーベに移った。マケドニアのフィリッポス2世が南下してくると、アテネではマケドニアへの抵抗を主張するデモステネスと、むしろマケドニアに協力してペルシアに当たろうと主張するイソクラテスの二説が対立、結局軍事的抵抗を試みたが、前338年、カイロネイアの戦いで敗れてその支配を受けることとなり、実質的独立を失った。これらのポリスの抗争も、市民を主体とした重装歩兵ではなく、傭兵に依存する戦争に変質していった。
デモステネス 前323年、アレクサンドロス大王が急死すると、国外に亡命していたデモステネスが帰国し、その主導によってマケドニアと戦ったが再び敗れ、デモステネスは国外に逃れて自殺した。さらに親マケドニア派政権によって、参政権を持つ完全市民は2千ドラクマの財産のある9千人に限られ、籤による役人選任、様々の日当支給、観劇手当の分配などが中止され、民衆裁判所でも法廷弁論が行われなくなった。<村川堅太郎他『ギリシア・ローマの盛衰―古典古代の市民たち』1993 講談社学術文庫 p.154>
ヘレニズム時代
ヘレニズム時代にはギリシア語(コイネー)はその世界の共通語として用いられたが、コスモポリタニズム(世界市民主義)の成立とともに、アテネのポリス社会は文化の基盤としての位置づけを弱めることとなり、学問の中心はアレクサンドリアに移った。ヘレニズム時代にはアンティゴノス朝マケドニアに対抗するギリシア諸都市はコリントなどが参加して都市同盟であるアカイア同盟を結成したが、アテネは参加せず、形式的には独立した都市国家として存続した。ローマの東方進出
前3世紀、地中海の西方のイタリア半島でローマが急速に成長し、前2世紀には東地中海に及び、マケドニアとのあいだでマケドニア戦争が戦われた。アテネはこの戦争ではローマと結び、前167年にマケドニアが滅亡した後も独立を維持した。しかし、ローマは前146年にはコリントを征服、破壊し、ギリシア支配を強めた。アテネは独立を保ったものの、民主政治は衰え少数者の寡頭支配が行われていた。前88年に小アジアのポントス王の反乱から始まったミトリダテス戦争では反ローマの戦線に加わったが、将軍スラの率いるローマ軍の報復的攻撃を受け、殺戮と掠奪にさらされたうえで破壊された。これによってアテネの政治的独立は終わった。ローマ支配下のアテネ
ローマ帝国支配下でのアテネは属州アカイアの一部に組み込まれた。なおもローマ文化に大きな影響を与えたストア派哲学の拠点として存在し、ギリシア語や哲学、また美術などはローマ文化に直接的影響を及ぼし続けた。 ローマ皇帝の中にはネロや五賢帝の一人ハドリアヌスのようにギリシア文明に傾倒し、アテネの復興に熱心なものもいた。しかし、アテネそのものは経済の中心がアレクサンドリア(エジプト)、政治の中心がビザンティウム(コンスタンティノープル)に移るとともに文化的にも衰退していった。参考 ハドリアヌスの“歴史の簒奪”
2世紀の初めのローマ帝国皇帝ハドリアヌスは、属州をくまなく巡回し、帝国支配を安定させた五賢帝の一人とされ、また荒廃したアテネを復興させたこともあって、高く評価されている。しかし、いっぽうではイェルサレムを破壊してローマ風な都市に改変し、ユダヤ人の離散の契機も作っている。そのアテネにおける復興事業はどのように捉えたらよいのか。次のような味方もある。(引用)歴史は、いつも決まって帝国の犠牲者となる。ハドリアヌスが自分の痕跡をどこよりも深く刻み込んだ都市アテナイでは、皇帝から賜った贈与を記念する瀟洒なアーチ門が、オリュンピエイオン神殿の近くに建てられた。その西側正面の碑文には、こううたわれている。「ここはアテナイ。かつてテセウスの建てし町」。呑み込みが悪い人間のために、反対側の碑文が要点を繰り返している。「ここはハドリアヌスの建てし町。テセウスのものにあらず。」ハドリアヌスが建てた他の多くの記念物と同じように、このアーチ門とそこに刻まれた碑文も、ギリシアの歴史を熱狂的に愛する姿勢を示す証拠と見なすことができる。ペリクレスが活躍し、パンヘレニオン同盟の本部が置かれたこの町のまさに中心で、ローマ皇帝は自分をアテナイの最初の建設者と結びつけて、エスプリの効いた彼個人の『対比列伝』を暗示しているのだ、と。あるいは、ハドリアヌスは、アテナイを最初に建国したテセウスと張り合うことで、過去と現在のアテナイに対する帝国支配を、耳障りにも高らかに宣言しようとしたと考えることも可能だろう。(下略)<クリストファー・ケリー『ローマ帝国』2010 岩波書店 p.99-100>
アテネのその後
ペリクレス時代が最盛期となった古典古代のアテネが、そのまま現在のアテネにつながっているのではない。アテネを中心とした文化遺産は、ローマに強い影響を及ぼしたが、それも395年にローマ帝国が東西に分裂すると、アテネを含むギリシアは東ローマ帝国領となりビザンツ文化圏を形成することになった。同時にローマ帝国がキリスト教を国教にしたことによって、ギリシアのキリスト教化も進み、ユスティニアヌス帝が異端排除を進める一環として、529年にアテネのアカデメイアを閉鎖したことは、古典古代のギリシア文化の伝統がここで途切れることになったことを意味する。中世では、十字軍時代にコンスタンティノープルのラテン帝国のような十字軍国家がギリシアに造られ、アテネには1205年にアテネ公国が造られた。オスマン帝国時代 しかし、アテネを含むギリシアを大きく変えることになったのは、オスマン帝国による征服の結果だった。1453年にコンスタンティノープルが陥落し、ビザンツ帝国はオスマン帝国に滅ぼされ、ギリシアのイスラーム化が始まり、ギリシア全土がオスマン帝国の支配下に入った。アテネ公国も1456年にメフメト2世に降伏し、オスマン帝国に組み込まれることとなった。これにより、アテネの町は大きく変貌した。
オスマン帝国時代にはアテネは政治的、経済的、文化的にも中心としての地位を失い、急速に衰退していった。オスマン帝国の支配の最後の頃、1820年代のアテネは、人口4千人ほどの寒村になっていた。
アテネの復興 アテネが復興するのは、1821年に始まるギリシア独立戦争によってギリシア王国が成立し、その首都となった1834年以降のことである。1896年には古代オリンピックの精神を復活させた第1回の国際オリンピック大会が開催された。それ以後、古典文化の中心地として大学などの文化施設も作られ、2004年には再びオリンピックが開催される大都市に発展した。<クロッグ『ギリシアの歴史』2004 創土社 など>