新冷戦(1980年代)
1979年、ソ連のアフガニスタン侵攻を機にアメリカのレーガン政権がソ連敵視政策を強め、両国の関係が緊張緩和から再び緊張状態に戻った。1985年のソ連のゴルバチョフ登場して改革が進み、89年の東欧革命によって東側陣営が崩壊したことから1989年、ブッシュ(父)とゴルバチョフがマルタ会談で冷戦の終結を宣言した。一般に新冷戦とは1970年代の緊張緩和(デタント)に対して、1980年代に米ソ、東西対立が再び厳しくなった時期(第2次冷戦ともいう)をさす。ただし、最近は21世紀に顕著になった、アメリカ・ロシア・中国の核三大国の対立が深まったことを指すようになっている。
第二次世界大戦後の世界情勢を規定する東西冷戦は、1970年代に入って緊張緩和(デタント)が進み、75年のヘルシンキ宣言を最も大きな成果として生み出し、その様相を大きく変化させていたが、70年代の終わりに米ソ両国の間の緊張関係にもどってしまった。それを「新冷戦」というが、1979年のソ連のアフガニスタン侵攻に始まり、同年、アメリカ議会が戦略兵器制限交渉(第2次)/SALT・Ⅱの批准を否決したことにも現れている。 → 冷戦(6)
ソ連はすでにヨーロッパに中距離核弾頭(INF)であるSS20ミサイルをワルシャワ条約機構軍に配備しており、アメリカは対抗してパーシングⅡミサイルをNATO軍に配備して、直接にらみ合い、ヨーロッパでは身近なところで核兵器が使用されるのではないかという緊張感が高まった。前年の1982年から米ソ二国間には戦略兵器削減交渉(第1次)(START・Ⅰ)が始まっていたが交渉は中断された。
*「大韓航空機事件」は1987年11月に起こったインド洋上に於ける大韓航空機の爆破事件を言う場合もある。こちらは翌年に予定されていたソウル・オリンピックを妨害するための北朝鮮のテロ工作であったことが後に判明している。
さらに11月7日、NATO軍の核戦争を想定した演習を、ソ連のスパイが実際の作戦行動と誤認して本国に通報した。ソ連は直ちに警戒態勢をレベルを上げると、NATO軍司令部の諜報機関からの情報でその動きをつかんだ。米空軍のベルーツ中将は、このまま演習を続ければ、ソ連は偽装だと判断して先制攻撃してくるリスクがある、と判断して演習を中止した。ソ連側も演習だったことを確認して警戒レベルを解いた。この二つのケースは警戒衛星の誤作動や諜報の誤りから起こった核戦争の危機であるが、核戦争にはこのようなリスクが常に存在している。<吉田文彦『迫りくる核リスク――<核抑止>を解体する』2022 岩波新書 p.72-80>
レーガンの登場・ソ連の混乱
1980年にはアメリカにタカ派(対ソ強硬派)の共和党レーガン政権が登場したことも両国の関係を悪化させた。レーガンは1983年3月8日の演説で、ソ連を「悪の帝国」と徴発し、さらに同1983年3月23日には戦略防衛構想(SDI)を提示し、対ソ軍事包囲網を宇宙まで核対する強硬姿勢を露わにした。ソ連は強く反発したが、前年の11月にブレジネフが死去し、アンドロポフが書記長となっていたが持病が悪化して充分な統制がとれない状態であり、硬直した社会主義体制の行き詰まりが露わになり始めていた。ソ連はすでにヨーロッパに中距離核弾頭(INF)であるSS20ミサイルをワルシャワ条約機構軍に配備しており、アメリカは対抗してパーシングⅡミサイルをNATO軍に配備して、直接にらみ合い、ヨーロッパでは身近なところで核兵器が使用されるのではないかという緊張感が高まった。前年の1982年から米ソ二国間には戦略兵器削減交渉(第1次)(START・Ⅰ)が始まっていたが交渉は中断された。
1983年の危機 大韓航空機事件*
“新冷戦”と言われる緊張が高まる中、1983年9月1日にソ連領内で大韓航空の旅客機がソ連のミサイルに撃墜され、約270名の乗客乗員が亡くなるという大惨事が起こった。大韓航空機がソ連領空に侵入した理由は現在もはっきりしたことは分からないが、航空機器の誤操作との説が有力であり、ソ連軍は警告に従わなかったので撃墜したと説明した。旅客機がスパイ飛行をするとは考えられなかったので、衝撃を受けた世界の世論は、ソ連の過剰な反応を非難した。*「大韓航空機事件」は1987年11月に起こったインド洋上に於ける大韓航空機の爆破事件を言う場合もある。こちらは翌年に予定されていたソウル・オリンピックを妨害するための北朝鮮のテロ工作であったことが後に判明している。
参考 露わになった核のリスク
米ソ、そしてヨーロッパに於けるNATOとWTO(ワルシャワ条約機構)の衝突の恐れが最も高まったと言われる1983年に、今一歩で核戦争になるようなケースが二回あった。まず9月26日、ソ連の早期警戒衛星がアメリカのICBMが飛来したというシグナルが地上基地の当直ペトロフ中佐にもたらされた。規則では直ちにソ連政府に知らせることになっていたが、中佐はシグナルの伝えるミサイルが5発だけであることに、一瞬、誤報ではないかと疑った。本物のミサイル攻撃だったら5発だけで済むはずはない・・・。腹を決めて上官に知らせないでしばらく待ったが、ミサイル着弾の情報はなかった。結局は衛星の誤報だったが、もしこのとき中佐が本物のミサイル攻撃と判断し、すぐに通報したらどうなったか。後に分かったのは衛星のシグナルは日光が雲の端に反射したものを、ミサイル発射の光と誤認したためと分かった。<W.ペリ-/T.コリーナ(田井中雅人他訳)『核のボタン』2020 朝日新聞社 p.98)>さらに11月7日、NATO軍の核戦争を想定した演習を、ソ連のスパイが実際の作戦行動と誤認して本国に通報した。ソ連は直ちに警戒態勢をレベルを上げると、NATO軍司令部の諜報機関からの情報でその動きをつかんだ。米空軍のベルーツ中将は、このまま演習を続ければ、ソ連は偽装だと判断して先制攻撃してくるリスクがある、と判断して演習を中止した。ソ連側も演習だったことを確認して警戒レベルを解いた。この二つのケースは警戒衛星の誤作動や諜報の誤りから起こった核戦争の危機であるが、核戦争にはこのようなリスクが常に存在している。<吉田文彦『迫りくる核リスク――<核抑止>を解体する』2022 岩波新書 p.72-80>
オリンピックに影を落とす
1980年代の新冷戦は、国際親善の最大の舞台であるオリンピックにも暗い影を落としている。1980年のモスクワ大会は、前年のソ連のアフガニスタン侵攻に抗議して、アメリカ・日本などが国家としての参加を拒否した。中ソ対立中の中国も不参加だった。次の1984年のロサンゼルス大会には、報復としてソ連など東側諸国がボイコット(名目的には前年のアメリカ軍のグレナダ侵攻に対する抗議)した。これらは1980年代の新冷戦という国際政治の問題が、スポーツを犠牲にしたできごとだったと言える。ゴルバチョフの登場
ソ連は82年にブレジネフ体制が終わりを告げ、替わったアンドロポフ、チェルネンコが相次いで死ぬという危機が続き、世界は再び核戦争の危機を迎えた。この新冷戦を終わらせ、冷戦そのものに終止符を打つことになったのが、ソ連に登場したゴルバチョフ政権であった。ゴルバチョフは新思考外交を掲げてアメリカとの大胆な軍縮交渉を提唱し、1987年にレーガンとの間での中距離核戦力(INF)全廃条約として結実し、SS20やパーシングⅡは廃絶されることとなった。冷戦の終結
1989年、東欧革命が急速に進展してベルリンの壁が撤去されたことによって、ゴルバチョフとブッシュ(父)大統領がマルタで会談、冷戦の終結を宣言した。1991年には戦略兵器削減交渉(第1次)(START・Ⅰ)も合意に達した。 → アメリカの外交政策