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文明

農耕・牧畜とともに形成された高度な社会の段階。文明の起源を「四大文明」に求めることが一般的であったが、最近はより広い地域で多様な形成・発展をしたと考えられている。

文明の意味

 文化が、旧石器時代から人間が集団的に伝承してきたさまざまな生活様式であり、衣食住や生産活動、精神活動の一つの地域的まとまりを言うのに対し、文明とは、より高度であり、また文化を包摂したより広範な地域における人間の創造的な営みを言う、と理解しておこう。地球上のほぼ全域に拡散した現生人類=ホモ=サピエンスは、石器時代の文化遺産を継承しながら、約1万年前に農耕・牧畜の段階にすすみ、約5000年前ごろから各地で特色ある「文明」を形成していった。

文明の指標

 文明段階の指標としては、一般に、新石器時代に移行して農耕・牧畜が始まったことによって余剰生産物が富として蓄積されるようになり、その上で都市国家の発生・階級関係の形成・金属器の使用・文字の使用などが始まったことがあげられる。地球上にいくつかの文明が発生するが、この4点は共通することである。

文明の形成

 人類は地球上の異なった地域で文明を複線的に形成してきた。その内容はそれぞれの文明によって違うが、また互いに影響を受けている場合もある。従来はティグリス・ユーフラテス川流域のメソポタミア文明ナイル川流域のエジプト文明インダス川流域のインダス文明黄河流域の黄河文明という、大河川の流域に形成された「四大文明」という言い方がされてきたが、最近ではそれにアメリカ大陸の古代文明を加える場合も多く、また四大文明の周辺の文明にも注意が払われるようになってきている。そのため、例えば黄河文明は最近では長江流域の長江文明もふくめて中国文明として一括して論じられることが多い。

参考 四大文明という用語

 1970年代に中国の長江流域で河姆渡遺跡などの紀元前6000年ごろに稲作文明が発生していたことが報告され、中国における文明の発生が黄河地帯だけではなかったことが明らかになったことから、「黄河文明」を「四大文明」の中の一つの文明とする常識は覆された。それが一つの契機となって、従来の常識であった「四大文明」という見方も再検討されるようになった。
(引用)じつは、この「四大文明」という語は世界共通のものではなく、日本特有の用語である。金沢大学の村井淳志氏によれば、「四大文明」という語をつくったのは「騎馬民族征服王朝説」などで知られる江上波夫氏で、昭和27年発行の教科書『再訂世界史』(山川出版社)が初出という。そこには、かつてアジアには高い文明があったことを強調することで、敗戦に打ちひしがれた日本人を鼓吹しようとする意図があったと推定される。<青柳正規『人類文明の黎明と暮れ方』興亡の世界史① 講談社学術文庫 p.241>
 しかしヨーロッパの知識人の中には、たとえばヘーゲルが『歴史哲学講義』の中で、アジアを①黄河・長江流域と中央アジアの高地、②ガンジス・インダス河の峡谷、③アムダリア・シルダリアの流域とペルシアの高地、およびティグリス・ユーフラテス川間の平地、④ナイル川流域の平野に分類したように、四つの大河の流域を歴史の主要な舞台とみるがすでにあった。その裏返しは、これらのアジアの文明は結局、大河流域に限られたとして閉鎖性、停滞性を強調し、ヨーロッパ人が大航海時代から世界の海に進出したことという歴史認識があった。1853年のエンゲルスのマルクス宛書簡にもそのような認識が認められる。
 つまり、アジアの四つの大河流域で文明が形成されたという発想は、個々の古代文明の研究から帰納されたものではなく、ヨーロッパ人の伝統的なアジア観から演繹されたものであり、文明はアジアで生まれたけれども、近代以降はアジアは後進地域になり、ヨーロッパが先進的となって優位に立ったという歴史観が見えすいている、ということだろう。
(引用)そうしたヨーロッパ人のアジア観を逆手にとり、戦後日本では「四大文明」という魅力的な用語で、「ヨーロッパ中心史観」に対抗しようとしてきたのである。<青柳正規『同上書』 p.244>