印刷 | 通常画面に戻る |

神聖文字/ヒエログリフ

古代エジプトの象形文字の一種で主に墳墓、石碑、「死者の書」などに用いられた。1822年、ロゼッタストーンをもとにシャンポリオンによって解読された。

ヒエログリフ
死者の書の一部

古代エジプトの象形文字

 古代エジプトの象形文字(絵文字)の一つで、神聖な碑文に用いられたので、神聖文字、または聖刻文字と言われる。その書体を簡略化し、パピルスに書けるようにしたのが神官文字(ヒエラティック)で、その筆記体が民用文字(デモティック、民衆文字ともいう。)である。エジプトがペルシア帝国に征服され、さらにヘレニズム時代にギリシア語が公用語とされたことによって、古代エジプト語と共にヒエログリフも使用されなくなり、忘れ去られた。ナポレオンのエジプト遠征の際にロゼッタ=ストーンが発見されたことから、その解読が始まり、1822年にフランス人シャンポリオンが解読に成功した。<以下、ジョルジュ=ジャン/矢島文夫訳『文字の歴史』1990 知の再発見双書 創元社 p.29-47 などによる> → 文字
 ヒエログリフという言葉は、ギリシア語で「神聖」を意味するヒエロスと、「刻む」を意味するグリュペインから来ている。古代エジプト人には、トトという神が文字を発明し、人間に授けたと信じられており、トトはまた書記たちの守護神であった。最古のヒエログリフは紀元前3000年紀にさかのぼり、ローマ時代のエジプトまで使用されていたが、その数千年間、文字数は増えたが、字形はほとんど変化が見られなかった。

文字の種類と向き

 シャンポリオンの解読によって判ってきたことによると、ヒエログリフはおおざっぱに言って3種類の文字があった。まず表意文字として事物を表す絵文字や図形があり、組み合わせて観念的な事象を現すこともできた。次に表音文字があり、これは音しか表さないもので、24個にしぼられたヒエログリフのアルファベットである。3つめが意味を限定するための文字(決定詞という)で、もっぱら他の文字について、その意味を明確にするためのものであった。古代エジプト語はこの3種類のヒエログリフを組み合わせて書かれた(解読されるまではこの違いが判らず、専ら表意文字としてだけ解釈しようとしていた)。
 ヒエログリフの解読が困難な理由のひとつは文字の配列である。原則として横書きでは右から左に読むが、人や鳥の絵文字があった場合にはその頭部が向いている方が文頭になる(縦書きの場合は頭部の向いている方の行から読む)。つまり人や鳥が左を向いている場合は左から右へ、右を向いている場合は右から左に読む。さらに位の高い神(オシリスやアヌピスなど)があると文中の人や鳥は皆その方を向いてしまう。そのため読む方向がわかりづらくなり、行ごとに向きが変わったり、下から上に読んだりする。ただ、神々やファラオの名は聖なるものなのでカルトゥーシュという囲みがされているので一目で見分けることが出来る。

死者の書と書記

書記
書記の像
 ヒエログリフは宗教的なことだけに使われたわけではなく、法律や売買、結婚の契約などにも使われた。もっともよく残っているのが死者の書であった。死者の書は紀元前13世紀の第一王朝の時代からミイラとともに墓に埋葬された、死後の世界の案内書である。死者の書はパピルスでつくられた紙に書かれた。
 パピルスにヒエログリフを書くのは高度な技術であり、専門の書記がその任務に当たった。書記は10歳ぐらいから専門の学校で修業し、高い権威を持ち、教師でもあった。書記が文字を書くときはあぐらをかいて膝の上で左手に巻紙を持ち、必要な分だけ右手で巻き取りながら書いた。筆記用具は20センチぐらいの葦の茎の先端を削って使い、赤と黒の2種類のインクが用いられた。

ヒエラティックとデモティック

 ヒエログリフを書く作業は大変な労力と時間がかかったので、簡便な書体がつくられた。ヒエログリフとほぼ同時期につくられたのがヒエラティック(神官文字)で、もとは聖職者が使った文字だったのでそう呼ばれた。これはヒエログリフを簡単にして続け書きができるようにした。紀元前650年頃、さらに流れるように右から左に書く草書体が現れ、日常生活で使われるようになったのでデモティック(民衆文字)と言われるようになった。シャンポリオンがヒエログリフを解読したロゼッタストーンは、同じ内容がヒエログリフとデモティックとギリシア文字の3種類で書かれていたことから解読のてがかりになった。

ヒエログリフの解読

 シャンポリオンロゼッタ=ストーンとフィレー島のオベリスク(石碑)に見られたプトレマイオスとクレオパトラの名を記したカルトゥーシュ(王名を示す枠)を手がかりとしてヒエログリフ解読に成功した。以下、加藤一朗の『象形文字入門』によってどのように解読されたか見てみよう。
ヒエログリフ

加藤一朗『象形文字入門』p.168

 ロゼッタストーンのギリシア語の部分にはプトレマイオスクレオパトラの名は繰り返し現れるが、ヒエログリフの部分は損傷が激しくプトレマイオスの名前しか見当たらなかった。そこに新たに発見されたフィレー島のオベリスクにプトレマイオスとクレオパトラの名があることがわかり、材料が加わった。二人の名をヒエログリフ、ローマ字、ギリシア文字で比較したのが右の図である。A(プトレマイオス)の1とB(クレオパトラ)の5は同じなのでローマ字のP、ギリシア文字のΠ(パイ)にあたる。A4とB2はローマ字のl、ギリシア文字のΛ(ラムダ)にあたる。A3とB4はローマ字のo、ギリシア文字のΟ(オミクロン)にあたる。Bのなかの6と9は同じ鳥であるからギリシア文字の中に二度出てくるΑ(アルファ)にあたる。残りの文字もギリシア文字から推測して決めることができる。なお、Bの末尾の2つの文字は、ギリシア語には対応していないが、後に神聖な女性の名の後に付けるものであることが判った。<加藤一朗『象形文字入門』1962 中公新書 p.167-168>

ヒエログリフはどのようにして消滅したか

 アレクサンドロス大王がアレクサンドリアを建設したころ、エジプト人が使っていた文字をギリシア人がヒエログリフ、ヒエラティック、デモティックとそれぞれ呼んだ。ということはそれらの文字がまだ使用されていたと言うことだ。しかし、プトレマイオス朝エジプトの都としてアレクサンドリアヘレニズム世界の中心となり、ギリシア語がその公用語とされるようになった。プトレマイオス王家はエジプトを統治するため、エジプトの学芸の伝統を尊重すると同時にアジプトの学者達をアレクサンドリアに集めた。また栄達を求めるエジプト人も競ってアレクサンドリアに集まった。こうしてエジプト人は外国語であったギリシア語を懸命に習得し、名前もギリシア名に改めたりするようになった。またプトレマイオス王家はエジプトの古い神オシリスとメンフィスの聖牛アピスを結びつけ新しい神セラピスとしてエジプト人の新宗教とした。<加藤一朗『同上書』 p.155>
キリスト教の布教 紀元後200年頃までにはキリスト教がエジプト人の中に広くゆきわたった。アレクサンドリアの市内ではキリスト教の伝道者たちがギリシア語の聖書をもちい、ギリシア語で説教した。しかし市内を一歩離れると、彼らはエジプト語を用いなければならなかった。そのうちエジプト語の聖書が書かれるようになったが、ヒエログリフ、ヒエラティックは伝統的な多神教とあまりに深く結びついていたし、デモティックは煩雑でわかりにくかったので伝道者たちはギリシア文字を使い、当時のエジプトの農民の言葉、つまり口語訳の聖書をつくった。このような大部分ギリシア文字そのままのエジプト・アルファベットをコプト文字と呼び、その時代のエジプト語をコプト語と呼んでいる。なおコプトというのはアラビア語でエジプトという意味である。このようにエジプト語の完全な表音文字化はエジプト人がすでに政治的独立を失ってからおこなわれたのだった。<加藤一朗『同上書』 p.160> → コプト教会
ヒエログリフの最後 ヒエログリフが使われた最後の例は紀元後4世紀であり、デモティックの使われた最後の例は紀元後452年のフィレ島の碑文である。実際には両方とも三世紀にはすでにほとんど使われなくなっていたが、この452年という年を最後にしてエジプトの象形文字の伝統は完全に絶えた。コプト語は残っていたが、これとヒエログリフの言葉とがおなじものであるということもまったく忘れられた。<加藤一朗『同上書』 p.163>