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イプソスの戦い

前301年に起こったアレクサンドロスの後継者ディアドコイたちの戦争の一つ。三国分立の契機となった。

ディアドコイ間の戦争

 前301年アレクサンドロスの部将たち、いわゆる後継者(ディアドコイ)たちの間で戦われた最大の戦い。イプソスは小アジア(アナトリア地方)の地名。アンティゴノスとその子デメトリアオス(攻城者)はアレクサンドロス帝国の再統一を目指したが、マケドニアのカサンドロス、アナトリアを抑えていたリュシマコス、シリアを拠点としたセレウコスはそれに随わず、アンティゴノスと反アンティゴノス連合軍がイプソスで衝突した。
 戦闘はアンティゴノス・デメトリオス軍が優勢であったが、デメトリアスが敵を深追いしたためアンティゴノスが孤立し、戦死してしまった。アンティゴノスはフィリッポス2世と同年の生まれで、アレクサンドロス軍の最古参将軍であり、大王の死後、小アジアを中心にディアドコイの中で常に台風の目となっており、前306年に最も早く王を称したが、イプソスの戦いで敗れ、81歳で生涯を閉じた。
 戦闘で優位に立ったのは、シリアのセレウコスであった。彼はそれ以前にインダス川方面でマウリヤ朝のチャンドラグプタと戦って敗れていたが、講和の代償として手にいれていた500頭の象部隊をイプソスの戦いに投入してアンティゴノス軍をやぶった。西洋の軍隊で象部隊が用いられたのはこれが初めてであった。

ヘレニズム三国の分立

 アンティゴノスの領有した小アジアは、他のディアドコイによって山分けにされ消滅した。息子のデメトリオスはその後も小アジアで失地回復をはかったが、前285年に捕らえられて服毒自殺した。勝ったリュシマコスが一時有力となったが、その後セレウコスと対立し、敗れた。
 マケドニアはカッサンドロスの死後、デメトリオスの子アンティゴノス2世が前276年に王となり、その結果、マケドニアのアンティゴノス朝、シリアのセレウコス朝、エジプトのプトレマイオス朝の三者の力が均衡し、ヘレニズム三国の分立の状態となった。
※なお、アレクサンドロス大王の東方遠征中のイッソスの戦い(前333年)と間違わないこと。
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