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ヒポクラテス

前5~4世紀、古代ギリシアを代表する医学者。病気を超自然現象としてでなく、生理学的に捉え、科学的な医学を創始したとされ、「医学の父」と言われる。

 前5~4世紀のギリシアの医学者で小アジア出身。名前の伝わっている医者としては、もっとも古い人物なので、「医学の父」とされているが、くわしいことはわからない。しかし、彼のギリシア語の医学書が後にアラビア語に翻訳され、アラビア医学に伝えられ、アラビア医学のイブン=シーナーを通して、ヨーロッパに伝えられることとなった。古代医学には、ローマ時代のガレノスがヒポクラテスの後継者として重要な位置にいる。

遍歴医ヒポクラテス

 ヒポクラテスは紀元前460年頃、エーゲ海のコス島に生まれた。コス島は自然哲学が盛んだったイオニア地方の対岸にあり、当時から医術がさかんで、彼もアスクレピオス派といわれる医師ギルドに属していた。当時の医学にはコス派に対抗する流派として、その南にあるクニドス岬にも医学校があり、クニドス派と言われていた。彼はアテネのソクラテスと同時代で、プラトンの対話篇に二度ほど顔を出している。自然哲学者で原子論を説いたデモクリトスは友人だった。
 ヒポクラテスは全ギリシャを旅行した、遍歴医だった。一ヶ所に定住する医者はそのころ稀だった。多くは渡り職人のように、御用聞きをして患者を探す。ある場所で患者がたくさんいると、臨時に「診療所」を仮設した。ヒポクラテスもそいう医者の一人だったのである。<梶田昭『医学の歴史』2003 講談社学術文庫 p.61>

ヒポクラテスの医学

 イオニア自然科学者が自然現象の説明に超自然的な力を排除しようとしたのと同じように、ヒポクラテスも病気の説明に、超自然的なものを排した。しかしヒポクラテスはまた、自然科学者が四大元素(空気・水・火・土)などに還元して説明するのに対し、「空気・水・場所」の環境が人間の健康と病気に影響を及ぼすという認識にいたり、単なる自然学から「生理学・病理学」に「離陸(テイクオフ)」させた。
(引用)病気は体を作る成分、すなわち体液の流れからおこる。「体は体液の乱れを正常にしようとする。それは内なる熱の働きであり、誤って混和した、あるいは生の体液をそれを調理する」、こうヒポクラテスは考えた。料理人に医者の原型を見たヒポクラテス(『古い医術について』)らしいところである。調理で無害となり、健康な成分から分かれた「悪いもの」は、嘔吐、下痢、排尿、喀出、発汗、出血、化膿と言った、いろいろなルートで排出される。……
 体液の良い混和と悪い混和という、医学を長く支配した病理思想は、ヒポクラテス医学に始まる。『空気、水、場所について』によると、季節、食餌、大気の乱れによっても体液の乱れが起こる。そうして体液は体に遍満しており、病気はどこに、という問いも、病気はなに、という問いも不必要だった。体はつねに全身だったし、病気はつねに一つだった。(クニドス派は病気は複数あると考えていた)
 ヒポクラテスにとって病気は単数だ。かれが扱った病人は「急性病」が多かったが、それをかれは、つねに全身病として捉えていた。症例は違ってもそこには共通の病歴、共通する分利と予後がある。その「病人」に対する一般病理学は「病名のない病理学」であった。<梶田昭『同上書』 p.59-62>

再発見されたヒポクラテス

 ヘレニズムの学問の中心地、アレクサンドリアでは、ヒポクラテスは次第に古代医学の祖と考えられるようになり、その著作とされる書物が成立した。ヒポクラテスの没(前375年)後、100年頃編纂された『ヒポクラテス集典』にはその両派やそれ以外の説も含まれているが、医術が迷信から科学に移行したことを示す書物となっている。
 ローマ時代のガレノスは、ヒポクラテスを理想の医師と崇め、ガレノス以後、ガレノスは正典になったが、ヒポクラテスは聖典になった。正典はすたれるときが来るが、この聖典はほぼ永遠だ。近代に入ると、ある時代、ある国で「ヒポクラテス」と称されることは、医師に与えられる最高の名誉となった。<梶田昭『同上書』 p.64>

参考 「芸術は長く、人生は短い」

 しばしば「芸術は長く、人生は短い」という警句は、ヒポクラテスの「人生は短く、技術は長い」という言葉がもとになったとされる。ヒポクラテスが言ったのは正確には次のようなことだった。
「生命(ビオス)は短く技芸(テクネー)は長し。機会(カイロス)は逸しやすく試み(ペイーラ)はつまずくもの、そして判断(クリシス)は難しい。」<梶田昭『医学の歴史』2003 講談社学術文庫 p.59>
 ヒポクラテスは医者としての経験を言っているのであり、したがって技術とは医術のことである。ギリシア語のテクネーがラテン語ではアルス ars と訳され、英語ではアート art に置き換えられ、日本ではそれが「芸術」と訳されたのだった。

参考 「ヒポクラテスの誓い」

 2016年の中山七里の推理小説『ヒポクラテスの誓い』が17年にはテレビドラマ化(北川景子主演だが未見)され、この言葉がにわかに広く知られるようになった。昔からヒポクラテスがギリシアの神々に誓ったこととして伝えられており、現在も世界各国の医学生が医科大学を卒業する際に、医師としての職業倫理を忘れないように宣誓しているという。どうやらヒポクラテス自身のことばではないらしいが、「医学の父」に仮託されて中世ヨーロッパですでに知られていた。たしかに、患者からしても医師はかくあってほしい、といった内容である。私たちがお世話になっているお医者さんたちが、どんな誓いをしているのか知っておくのも良いことだ。
(引用)医神アポロン、アスクレピオス、ヒキエイア、パナケイアおよびすべての男神と女神に誓う。私の能力と判断にしたがってこの誓いと約束を守ることを。この術を私に教えた人をわが親のごとく敬まい、わが財を分って、その必要あるとき助ける。その子孫を私自身の兄弟のごとくみて、彼らが学ぶことを欲すれば報酬なしにこの術を教える。そして書きものや講義その他あらゆる方法で私のもつ医術の知識をわが息子、わが師の息子、また医の規則にもとづき約束と誓いで結ばれている弟子どもに分ちあたえ、それ以外の誰にも与えない。私は能力と判断の限り患者に利益するとおもう療養法をとり、悪くて有害と知る方法を決してとらない。
頼まれても死に導くような薬を与えない。それを覚らせることもしまい。同様に婦人を流産に導く道具を与えない。純粋と神聖をもってわが生涯を貫き、わが術を行なう。結石を切り出すことは神かけてしない。それを業とするものに委せる。
いかなる患家を訪れるときもそれはただ病者を利益するためであり、あらゆる勝手な戯れや堕落の行ないを避ける。女と男、自由人と奴隷のちがいを考慮しない。医に関すると否とにかかわらず他人の生活について秘密を守る。
この誓いを守りつづける限り、私は、いつも医術の実施を楽しみつつ生きてすべての人から尊敬されるであろう。もしもこの誓いを破るならばその反対の運命をたまわりたい。<小川鼎三『医学の歴史』1964 中公新書 p.13-14>
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梶田昭
『医学の歴史』
2003 講談社学術文庫