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重装歩兵(ローマ)

ローマ共和政のもと、ローマ市民が武装し、市民軍を構成した市民兵士。平民(プレブス)が重装歩兵としてローマの半島統一戦争などに参加し、次第に貴族との身分の平等を獲得していった。

 ギリシアの重装歩兵と同じく、兜・鎧・楯を装備し槍を武器とする歩兵。都市国家ローマの平民(プレブス)(農民や商工業者)で、それらの武器を自弁(自分で調達)することのできるものが市民としての権利を得た。前5世紀の中頃、ローマが他の都市国家と抗争したり、北方からのガリア人の侵入と戦ったりするなかで形成されてきたものと思われる。

エトルリア人の王による重装歩兵市民軍の創設

 都市国家ローマの市民軍制度を整備したのは前6世紀のエトルリア人の王セルウィウス・トゥリウスであった。セルウィウスはローマ市を囲う城壁を建造したとも伝えられる王で、軍事力の強化のため市民軍制度を作った。前1世紀の歴史家リウィウスの『ローマ建国以来の歴史』によれば、市民の財産に応じて5つの等級に区分し、それぞれ武装(いずれも歩兵)の内容を定め、第一階級を重装歩兵とした。武装は自弁とされたので、重装歩兵になるのは市民の中の最も豊かな階級であった。武装を自弁できないものは従軍の義務を免除された。貴族は5階級の上に騎士として位置づけられた。各階級からは複数の百人隊(ケントゥリア)が編成され民会(ローマ)での選挙の投票単位とされた。その民会ケントゥリア民会(兵員会)といった。この前6世紀のセルウィウスの制度は実際に行われたかどうかわからないことではあるが、重装歩兵を組織しようとしたことは間違いない。重装歩兵はギリシアから伝えられたファランクス(密集部隊)の戦術をとったと思われるが、実際にどのように組織されたかは判っていない。いずれにせよ、ローマではエトルリア人の王のによって重装歩兵を核とする市民軍の制度が創設されたことは疑いない。<井上文則『軍と兵士のローマ帝国』2023 岩波新書 p.29-35>

ポエニ戦争期のローマ軍

 前2世紀、はっきりと姿を現したローマ軍は、ポリビオスの『歴史』が伝えるところによると、毎年、4個の軍団が編成され、2名のコンスルが最高指揮官としてそれぞれ2個の軍団が割り振られた。1軍団は通常は歩兵が4200人、騎兵が300騎だった。兵員は徴兵によって満たされ、その対象となったのは400ドラクマ以上の財産を持つ17歳から46歳までの市民である。兵役の期間は騎兵が10年、歩兵が16年(非常時には20年)、従軍資格資産を満たさないものは軍船での労役を課された。軍団の兵士は年齢と携行する武器の種類で四種類に分けられ、その中心は若い重装歩兵(ハスタティ)であり、楕円形の大楯(幅約225センチ、高さ360センチ)、イベリア剣と刃渡り60~70センチの長い投げ槍を持ち、羽根飾りのついた青銅製の兜、脛当て、胸甲を身につける。働き盛りの年齢の重装歩兵(プリンキペス)も同様の武装であった。年長者の重装歩兵(トリアティ)は投げ槍の代わりに突き槍を持つた。他に貧しい者たちからなる軽装歩兵(ウェリテス)がいた。
ザマの戦いでのローマ軍 第二次ポエニ戦争のザマの戦い(前202年)でのローマ軍は、最前列にハスタティ、二列目にプリンキペス、三列目にトリアティがそれぞれ中隊を編成し、カルタゴ軍の象部隊に対応するため各中隊は間隔を置いて配置された。最前列のハスタティ中隊の間に配置されたウェリテスの部隊は先鋒として戦うことが命じられた。ローマ軍の左翼にはローマ人の騎兵、右翼にはヌミディア人の騎兵が配された。戦闘は投槍戦に始まり、カルタゴの象部隊が突入、ローマ軍の各中隊は間を開けて象部隊を素通りさせ、戦列を横に広げてカルタゴの重装歩兵部隊と激突、ローマの騎兵がカルタゴの騎兵を破って背後に回り、勝敗がついた。ローマ側の死者は1500人ほどだったのに対し、カルタゴ軍は2万5千以上が死んだという。
 以上のように前2世紀ごろのローマ軍はすでにファランクス戦術は見られなくなっている。依然として武器自弁が可能な有産市民によって編成される市民軍であるという原則は変わっていないが、このころには軍団の兵士には給与が支払われており、都市国家の市民軍の原則から逸脱している。当時のローマ軍は市民軍という言葉から連想されるものとは大きく異なり、きわめて強力な軍隊だった、といえる。またローマ軍は残虐さにおいても比類なく、敵に恐怖を与えるために、慣習的に都市を占領すると住人を皆殺しにしたと言われている。ローマ軍は、まさに豺狼の集団だった。<井上文則『同上書』 p.35-42>

ローマ共和政と地中海支配

 ローマ共和政は中小農民が重装歩兵となる「市民軍の原理」によって軍事力を強め、イタリア半島統一戦争を進めていった。その過程で重装歩兵としてローマの軍事力をになった平民はその地位を向上させ、身分闘争を展開した上で前3世紀中頃までにローマ共和政を成立させた。
 さらに、前3世紀から前2世紀のポエニ戦争マケドニア戦争によって地中海世界を制圧したが、都市国家であるローマが広大な地中海世界を支配するという矛盾が次第にあらわれてきた。

中小農民の没落

 また、各地に属州を設けていくに従い、戦争の長期化と安価な穀物の流入が中小農民の没落をもたらすようになり、彼らが重装歩兵となって市民軍を編制することが出来なくなっていった。
 有産市民の多くを占める中小農民の没落は、武装を自弁できる有産市民からなるローマ軍存続の危機であった。この危機を中小農民の再建によって乗り切ろうとしたのがグラックス兄弟の改革であった。前133年に護民官となった兄のティベリウスは公有地の占有を500ユゲルム(125ヘクタール)に制限し、制限を超える土地を没収して没落した中小農民に分配した。しかし反対派によって暗殺され、ついで前122年に護民官となった弟のガイウスも改革を実行しようとしたが同じく反対派の手によって殺害され、中小農民の再建によるローマ軍の立て直しという方向性は潰えた。別な方向から解決を図ろうとしたのがマリウスだった。

市民軍制から職業軍人制へ

 市民軍の弱体化が表面化したのが前111年に起こったユグルタ戦争であった。そのとき執政官となったマリウスは、大胆な兵制改革を行い、職業軍人制に転換することになる。マリウスの兵制改革は、平民を徴兵して武装義務を負わせるのではなく、無産市民を志願兵として募集し、その中から訓練によって職業的な軍人を育成するものであった。この職業的軍人は有力政治家と私的に結びついて私兵化しゆき、これによって徴兵制から広い意味での傭兵への転換ということもできる。
マリウスの兵制改革
(引用)マリウスは前107年に、北アフリカのヌミディア王国の王ユグルタとの戦争に際して、従来兵役を免除されていたプロレタリイと呼ばれる無産市民を兵士として募集し、従軍に必要な財産資格を完全に取り払ったのである。従軍に必要な最低限の財産は、セルウィウスの制度では1万1000アスであったのが、ポリュビオスの段階で4000アス、さらにマリウスの改革の直前で1500アスにまで引き下げられていたので、マリウスは、この傾向をもう一歩推し進めたにすぎないとも言えるが、しかしながら、財産資格を完全になくしてしまったのは、やはり革命的であった。この措置に応じて、武具も国家から支給されるようになった。こうして、マリウスの改革以後は、兵士の大部分が、・・・・・・軍務を職業として選んだプロレタリイによって占められるようになったのである。<井上文則『軍と兵士のローマ帝国』2023 岩波新書 p.45-46>
 プロレタリイたちは彼らを募集した政治家に個人的に雇用されたようなものであり、戦争の終結後には退職金としてその政治家の力で土地の配分を受けたので、彼らの私兵としての性格を帯びるようになった。マリウス以後は武力をたくわえた有力政治家が抗争するようになる。 → マリウス兵制改革の項を参照

カエサルのローマ軍

 「その多くが職業軍人からなる、半ば常備軍化した軍隊の一つの完成形態」がカエサルの軍隊であり、『ガリア戦記』に描かれている。ガリアで戦ったカエサルの軍隊は4軍団から成り立っていたが、前58年のヘルウィティ族(現在のスイス付近にいた)との戦いで、新たに徴募した2軍団を加えた。当時の1軍団は4800人であったので、総兵力およそ3万の大軍となる。ヘルウィティに大勝した後、前52年からガリア人を率いたウェルキンゲトリクスとの戦いとなり、カエサルの軍団は11に増加した。カエサルは苦戦の末、最後は自ら深紅のマントを翻して出撃、ついにウェルキンゲトリクスを降伏に追い込んだ。
 カエサルの軍はポリビオスの時代の年齢や装備の違いにより三段階の区分はなくなり、武具は投げ槍とイベリア剣に統一され、軍団兵はすべて同じ装備の重装歩兵となった。また主力軍団からは騎兵もいなくなった。カエサル軍の強さの要因はその土木技術の高さにあり短期間に野営陣地を構築する能力を有していた。その技術は帝政期にも用いられた。<井上文則『前掲書』 p.48-54により構成>


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ローマ帝国の軍隊

ローマ帝国を支えた軍事力は、職業的な軍隊によって構成された。重装歩兵を中心とした軍団は、ローマの対外戦争の戦力となり、その勢力は皇帝選出も左右した。

ローマ帝国の軍団

 紀元前最後の1世紀末から帝政初期を通じて、ローマ軍は軍団(レギオ)を中心に編成された。軍団はほぼ5000人の歩兵からなり、厳しい訓練を受け、装備も行き届いていた。それぞれの軍団は百人隊(ケントゥリア)に分けられ、下級士官の百人隊長が指揮を執った。6個の百人隊で1個の歩兵大隊(コホルス)を編成し、10個のコホルスが1軍団を形成した。軍団の兵士はおもに短剣と投げ槍で戦い、楯とよろいかぶとで防備した。彼らは職業軍人としての意識が高く、十分な訓練を施され複雑な作戦を遂行した。また道路や砦、橋の建設などにも従事した。
 軍団の兵士はローマ市民(ローマの住民の意味ではなく、ローマ市民権を持つものの意味)のみが徴募され、共和政時代には土地や資産を持つものが自費で装備を調えていたが、前2世紀のマリウスの兵制改革から、都市の無産市民からも志願兵を募った。
 軍団と並んで重要な補助部隊は、ローマ市民以外から徴募され、500~1000人でコホルスを編成し、ローマ人の士官の指揮に従い、多くは例えばシリアの弓部隊のように専門化していた。補助部隊は軍団兵士より従軍期間が長く、給料も少なかったが、退役に際してローマ市民権が与えられた。
アウグストゥスによる常備軍化 前31年にローマの内戦(内乱の1世紀)が終わったとき、60もの軍団があったが、アウグストゥスは前13年にそれを28に減らし、軍事力の必要な辺境に駐留させた。それでも兵士数は30万人にものぼり、その費用は国家支出の大きな部分を占めた。帝政初期には軍団の兵士には年に900セステルティウスの給料が支払われたからである。兵士の従軍期間は20年で、入隊時は結婚を禁止されていた。劇場や闘技場でも兵士と市民の席が分けられた。
 こうしてアウグストゥスの治世にローマ軍は完全な常備軍と化した。徴兵制度そのものは残ったものの、常備軍化に伴って、兵士の職は非常時を除いては、これを職業として選択した志願兵によって担われることとなった。100年に及んだ内乱の勝利者としてアウグストゥスが狙ったのは、市民と軍隊を分離すること、つまり市民を武装解除し、君主のみが軍事力を持つことであり、それによって君主の地位が安泰となることだった。しかし、軍と市民の距離が取られたことは、軍を帝国内の特殊な集団としてしまったことを意味し、その距離が時代とともに開いていくことで、力をつけた軍隊が皇帝権力を左右し、最終的にはローマ帝国の滅亡にかかわってくることになる。<井上文則『井上文則『軍と兵士のローマ帝国』2023 岩波新書』 p.55-58 などにより構成>

参考 ローマ軍を支えたシルクロード交易

 アウグストゥスによるローマ軍の常備軍化は、莫大な支出を伴っていた。その財政的裏付けは何だったか。その財源としてユーラシア大陸の東西を結ぶシルクロード交易をあげる説がある。ローマ人は市内を流れるティベル川を下って地中海に出、エジプトのアレクサンドリアからナイル川を遡り、コプトスで上陸、砂漠を横断して紅海沿岸の港にでて、船で紅海からインド洋に出て「ヒッパロスの風」を利用してインドに達した。これはギリシア人商人が古くから利用していたインド洋交易圏を利用するルートだった。ローマ人は金貨やガラス器、葡萄酒、地中海の珊瑚などを持ってゆき、インドで中国からもたらされた絹や東南アジアの胡椒などを手に入れてローマに帰った。
 アウグストゥスの時代はこのシルクロード交易が最も活性化した時期であった。ストラボンの『地理誌』にもそのことは伝えられており、ポンペイの遺跡からインドの彫像が、インドではローマの金貨がみつかっている。ここで重要なのはローマ帝国は外国との交易に25%の高額な関税をかけていたことである。2世紀半ばのある商船は、アレクサンドリアで230万セステルティウスほどの輸入関税を支払ったことが知られている。仮にこのような船が年間120隻あったとすれば、アレクサンドリアでの関税収入だけで年間2億7000万セステルティウスにもなる。アレクサンドリア以外の関税もあったであろうし、輸入だけでなく輸出にも関税が課せられたから、ローマ帝国の関税収入は相当な額に達したと考えられる。
 共和政ローマがカルタゴとの戦争以来、地中海を制圧し、「ローマの平和」を実現した時期には、パルティア、クシャーナ朝、後漢の4つの帝国がユーラシア東西に割拠し、相対的安定がもたらされた。それがシルクロード交易を活性化させた世界情勢だったと考えられる。1世紀後半に頂点を迎えたシルクロード交易は、2世紀の中頃ローマのマルクス=アウレリウス帝治世で「アントニヌスの疫病」といわれた感染症の流行が、同じ頃ユーラシアに広がってゆき、3世紀までにパルティア、クシャーナ朝、後漢はそれぞれ衰退か滅亡し、ローマ帝国も五賢帝時代が終わったことで衰退に向かう。この背景には地球の気候変動も関係した可能性があるが、それがローマ帝国の歴史にも影響を与え「帝国の時代」が終わりに向かうことになったと考えられる。それと並行して起こったのがローマ軍のプロ化の進展であった。<井上文則『前掲書』 p.218-226 などにより構成>

五賢帝時代のローマ軍

 「ローマの平和」を実現させた五賢帝時代は、本国であるイタリアを守る近衛兵と属州に駐屯する軍団と補助軍によって構成された。アウグストゥスが死去した後14年に25個だった軍団はアントニヌス=ピウス帝の時には28個になっており14万6720人となる。軍団にはローマ市民権を持つもののみが入隊可能で志願兵から成っていた。帝政初期にはローマ市民権を持つイタリア出身者に限られていたが、市民権が属州に拡大されてからは、軍団は現地徴募になっていった。志願兵で兵員を満たすことができたのは、「ローマの平和」によって戦争に巻き込まれることが少なかったことと、確実に現金収入を得ることができ衣食住に事欠かず、軍医による医療さえ受けられたからであった。属州における軍団の駐留地には商人や売春婦までもが集まり、都市が形成された。ドイツのボン、ケルン、マインツ、イギリスのヨーク、オーストリアのウィーン、ハンガリーのブタペスト、セルビアのベオグラードなどは軍団の駐留地から始まった都市である。
 これらのすべての軍の最高司令官は皇帝であった。軍は毎年一月一日に皇帝に対すて新たな忠誠を誓い、軍営の司令部には皇帝の胸像が置かれ崇拝の対象とされた。マリウスの幣制改革以来始まり、もはや国家の軍隊ではなく「皇帝の軍隊」、皇帝の私兵という本質になっていた。<井上文則『前掲書』 p.60-78 などにより構成>

ローマ軍隊の変質

ローマ帝政期の軍隊

『ローマ帝国―地図で読む世界の歴史』河出書房新社 p.88より

 五賢帝時代が終わって2世紀末に登場したセプティミウス=セウェルス帝(カラカラ帝の父)は、1世紀末のドミティアヌス帝以来、1世紀ぶりとなる兵士の給料の引き上げを実施し、しかも軍団の兵士の結婚を認め、兵営の外での家族との生活を許した。こうした容認は兵士の忠誠心を高めたかも知れないが、ローマ軍の機動力と柔軟性が失われた。
軍人皇帝 セプティミウス=セウェルス帝は権力を握る際と、それを維持するにあたり、軍隊の力に大きく依存した。その対外戦争も、軍隊に勝利の栄光とともに略奪品を与える必要から行われた面が強い。軍隊の中の皇帝親衛隊は、皇帝の政治を支える大きな力となり、彼らは自分たちに最も高い給料を払ってくれるものを皇帝としてするため、不都合な皇帝を殺害するなどの不法を犯すようになり、いわゆる軍人皇帝時代が到来する。
ウァレリアヌス帝の改革 3~4世紀には、ローマは新しい敵(ササン朝ペルシアゲルマン人)と戦うため、戦略と軍隊組織の改変に迫られた。軍団の歩兵にかわって、3世紀半ば頃から機動力のある騎兵隊が創設され、戦術は一変した。3世紀中頃の軍人皇帝の一人ウァレリアヌス帝は260年、西アジアに遠征したが、ササン朝ペルシアのシャープール1世とのエデッサの戦いに敗れて捕虜となった。彼は遠征前に軍制改革を行い、従来の軍団と近衛軍だけでなく皇帝直属の機動軍を創設している。また次のガリエヌス帝は途絶えていた騎兵部隊を復活し、より機動生を高める改革を行った。しかし、軍隊の存在が重きをなすに伴い、皇帝の地位もその動向によって左右される事態は、ウァレリアヌスの敗北以来強まっていく。
ディオクレティアヌス 軍司令官や属州総督は本来、元老議員の身分のものがついたが、3世紀の後半になると、兵卒上がりの軍人がその地位に就くようになり、さらに軍の実権は軍団の司令官から機動軍の司令官や騎兵部隊の司令官に移っていった。軍人皇帝時代には兵卒上がりの軍人で機動軍や騎兵部隊の司令官となったものが皇帝に選ばれるようになった。軍人皇帝時代を収束させたディオクレティアヌス帝も機動軍部隊の司令官であった。ディオクレティアヌス帝は、帝国分治体制である四分統治を導入するに当たり、機動軍を増設し、辺境の防備を強化した。
コンスタンティヌス ディオクレティアヌスの機動軍増設は次のコンスタンティヌス帝にも引き継がれた。コンスタンティヌス帝のもとで、ローマ帝国の機動軍は完成したと考えられ降り、正式に辺境軍と遊撃隊に分け、双方に騎兵と歩兵を配属した。コンスタンティヌス帝は並び立つ東帝リキニウスに決戦を挑み324年アドリアノープルで勝利して帝国の統一を回復した。この戦いは古代最大の会戦とも言われ、コンスタンティアヌス帝側は歩兵12万、騎兵1万、リキニウス帝は歩兵15万、騎兵1万5千が動員された。<以上、クリス・スカー/吉村忠典監修『ローマ帝国―地図で読む世界の歴史』1998 河出書房新社 p.60-61 /井上文則『前掲書』 p.108-152 などにより構成>

ローマ軍隊の「蛮族化」

 4~5世紀には、遊撃隊は職業軍人からしだいにゲルマン人傭兵が中心となり、ローマ市民兵は減っていった。
 ローマ帝国の辺境にあったゲルマン民族などが盛んに領内に侵攻してくるようになった4世紀には、ローマ帝国の正規軍そのものを構成する諸部隊が、ローマ人からゲルマン人などの「蛮族」に入れ替りが始まった。彼らは自らの部族のリーダーに率いられて、それぞれ特有の戦争法で戦うようになった。蛮族の将兵が正規のローマ軍諸部隊の中に入り込み、ローマ正規軍が蛮族の装備と戦闘技術を採用するようになった。ローマはゲルマン民族の戦法と戦うには、ゲルマン人を軍人とし、その戦法で戦う方が有効だと考えるようになった。しかし、そのため、ローマ軍としての統一はとれなくなり、脱走や裏切りが増えていった。そのような軍隊の蛮族化は5世紀になると帝国西部で特に進み、帝国東部では歯止めがかかった。それが西ローマ帝国は滅亡し、東ローマ帝国は生き残ることとなった。
 以上のローマ軍の蛮族化はほぼ定説として説明されているが、研究者によっては史料上のローマ正規軍のなかで蛮族出身の将兵の占める割合は4分の1程度に過ぎず、また蛮族の補充も同一部族から徴集されることはなかったので、蛮族部隊が集団アイデンティティを持ち続けたことはないとして、否定する見方もある。ただしローマ正規軍がゲルマン人騎兵の戦術を取り入れるようになったことは確かとされている。西ローマ帝国の滅亡を、ローマ軍の蛮族化だけにもとめるのは正しくないと思われる。<井上文則『前掲書』 p.178 などにより構成>

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書籍案内

クリス・スカー/
吉村忠典監修/矢羽野薫訳
『ローマ帝国
地図で読む世界の歴史』
1998 河出書房新社


ハリー・サイドボトム
『ギリシャ・ローマの戦争』
1冊でわかるシリーズ
2006 岩波書店

井上文則
『軍と兵士のローマ帝国』
2023 岩波書店