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カヌレイウス法

前445年、古代ローマで貴族と平民の通婚を認めた法令。平民の地位向上につながった。

 古代ローマの共和制時代には、前450年ごろ、はじめて制定された成文法である十二表法において、貴族(パトリキ)平民(プレブス)の通婚は禁止されていたが、貴族の政権独占を不満とする平民の身分闘争が進行する中で、前445年、カヌレイウス法が制定され、貴族と平民の通婚が認められることとなった。これによって、平民の中の有力なもの(プレブス上層)は、貴族と婚姻関係を結び、政界にも進出するようになった。 → ローマ共和政

参考 カヌレイウス法の内容

 カヌレイウス法は教科書ではほとんど取り上げられないが、用語集で見ることがある。通常、貴族とプレブスの通婚を認めたとして出てくるのでそれで充分であるが、次のような説明もあるので参考にして下さい。
(引用)紀元前445年のカヌレイウス法は貴族、平民の通婚の禁止を撤廃し、毎年選出されるコンスルの代わりに、平民でも就任しうる執政武官という最高官を選出してもよいということを定めた。プレブス上層と貴族との間の対立関係にいっそうの手が打たれたわけである。このようにしてローマ市民共同体はこのとき、ウェーバーがいった意味での重装歩兵ポリスの類型に大きく近づいたといえよう。<弓削達『地中海世界』新書西洋史① 1973 講談社現代新書>
 国内の結束を固めたローマはプレブスも就任しうる執政武官の設置によって容易となった重装歩兵軍の動員に助けられて、南方のアエクィ人やウォルスキ人を破り、北方ではウェイイ(エトルリア人の都市)との10年に及ぶ闘いによって前396年に攻略した。ローマはウェイイから獲得した土地に4トリブス(地区)を設置して農民の入植者に土地を割り当てて送り込んだ。こうして市民共同体の存続と発展を図り、南方カンパニア地方との交易路を確保して商業の発展を図ったのだった。
 しかし、ケルト人の侵攻を受けてローマが一時占領されるという事態となったことを受けて貴族と平民の対立が新たに深刻となったため、前367年にリキニウス・セクスティウス法が制定された。このとき、カヌレイウス法で設置された執政武官は廃止され、二名のコンスルを復活させ、その一名を平民とすること、貴族の公有地占有を制限することなどの措置が執られたのだった。
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書籍案内

弓削達
『地中海世界』新書西洋史②
1973 講談社現代新書