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ハドリアヌス

2世紀前半、五賢帝の3番目の皇帝。帝国の全盛期にあたりローマの都市整備、属州経営を行い、ブリテン島に長城を築いた。

 ローマ帝国の全盛期、五賢帝の3番目のローマ皇帝。在位117~138年。先代のトラヤヌスと同じ、属州ヒスパニアの生まれ。軍人としてガリアやシリア、ギリシアなどを転戦して戦功を上げ、またギリシア文化にも通じた文化人としても知られていた。トラヤヌス急死の際にその養子に指名され、軍隊の支持によって推され、元老院が承認して皇帝となった。彼は無理な領土拡張策は採らず、いわば“平和的手段による国家経営”にあたり、属州の経営と都市ローマの整備に努め、ローマ帝国の安定をもたらした。次の皇帝として元老院議員のアントニヌス=ピウスを指名して病死した。

領土拡張時代が終わる

 皇帝になるとまず東方のパルティアとの戦争を中止して兵を引き揚げ、アルメニア・メソポタミアをパルティアに返還した。これで建国以来続いた外征はいったん終わることとなった。これはローマ帝国の膨張が終わるという重要な転換を意味していた。軍人として前線にいた彼は、膨張しきった戦線を維持することが非常に困難であることを理解し、特にアルメニア・メソポタミアの維持は困難と現実的な判断したのだった。

世界遺産 ハドリアヌスの長城


ハドリアヌスの長城の一部
ヘイドン・ブリッジ (トリップアドバイザー提供)
 その後、皇帝としての仕事はもっぱら残された広大な属州の維持につくし、彼自身が旺盛に帝国各地を巡回した。最も遠いブリタニアでは北方のケルト人に対して「ハドリアヌスの長城 Hadrian Wall」と言われる118キロに及ぶ防壁を築いた。それはイギリスに現存するローマ帝国時代の遺跡であり、ローマ帝国のブリテン島における政治、軍事上の境界線を示している。また後には、スコットランドとイングランドの境界線としても意味をもった。
 中国の万里の長城を思わせ、現在も東のニューキャッスル市から西に延び、カーライル市を経て西端のボウネスまで、ブリテン島を東西に横切りその遺構は良く残されており、1987年に世界遺産に登録された。
 この長城を築いた皇帝ハドリアヌスは、紀元122年ごろ実際に自らブリテン島を訪れ、長城建設を命じている。この皇帝はブリテン島だけでなく、ローマ人の支配する「世界」をくまなく歩いた。広大な帝国領の充実に努め、属州ブリタニアにも多くの都市と延べ8000kmに及ぶ道路を造り、ローマの生活・習慣を持ち込んだ。今もイギリス各地にはこの長城だけでなく、ローマ時代の浴場や円形競技場の遺跡が沢山残されている。<南川高志『ローマ五賢帝』1998 初刊 2014 講談社学術文庫で再刊 p.9>
 また、バルカン半島のエディルネはハドリアヌスの時に築かれた都市なのでアドリアノープルといわれていたが、後にオスマン帝国に占領され、1366年に現在の都市名に変えられた。

都ローマの造営

 当時ローマは、約1400ヘクタールの広さをもち、100万の人口をかぞえていたが、アウグストゥス以来百年が経過し、都市の整備計画が必要とされていた。ハドリアヌスは解放奴隷アエリウス=フレゴンに命じて綿密な都市整備計画をたてた。その基本は皇帝の権威を高めることと同時に元老院議員の自尊心を満足させ、市民生活の利便性を高めることであった。まず、パンテオン(万神殿)を建設して神々に守られたローマを演出し、また自ら設計図を書いてウェヌスとローマ神殿を建設した。

評価の高い“巨人皇帝”

 ハドリアヌスは歴代のローマ皇帝の中でも高い評価を受けている一人である。次はその例の一文。
(引用)一度しかあったことのない兵士の名前でさえ正確に記憶していたというハドリアヌスは、政治、経済、軍事だけでなく、法律、宗教、文学、数学などさまざまな分野に通暁した万能の人間だった。瑣末なことにも旺盛な好奇心を示しながら、大局の判断を狂わせることはなく、冷静周到に計画を練りながら、決断実行においては大胆果断であった。ユピテルの威厳とマルスの勇猛さをそなえ、アエスクラピウスのような慈愛に満ち、ヘリオスのように光り輝いていた。その一方で、都においては最善の市民として振る舞いながら、属州にあっては神として崇められることを拒まなかった。元老院を尊重し、協調を旨としながら、都とイタリアの外では元老院をないがしろにすることもしばしばであった。優れた資質と才能をいかんなく発揮した皇帝でありながら、矛盾、対立、撞着をうちにもつ人間でもあった。・・・<青柳正規『皇帝たちの都ローマ』1992 中公新書 p.315>

「世界」を旅した皇帝

 117年に即位した皇帝ハドリアヌスは、生涯に何度も大旅行を行い、ローマ帝国領の各地を訪れている。その足跡は、ガリア、ゲルマニア、ブリタニア、イスパニア、などの西方から、東方のルーマニア(ダキア)、ギリシア、小アジア(トルコ)、エジプト、さらにシチリア島、北アフリカ各地など、ほぼすべての属州が含まれている。
 131年には属州ユダヤエ(パレスティナ)の古都イェルサレムをローマ風の都市に造り替えようとして神殿を破壊、反発したユダヤ人が第2次ユダヤ戦争が起こったがそれを鎮圧し、それによってユダヤ人の離散が進んだ。
 特にギリシアには前後三回ほど訪問し、荒廃していたアテネの復興につくしている。今日アテネのパルテノン神殿のあるアクロポリスと並んで立っているゼウス・オリュンピオス神殿は600年ほどのあいだ未完成だったものをハドリアヌスが完成させたものである。ハドリアヌスはアテネを再興した神として敬われ、いわゆる「ハドリアヌスの門」も造られた。

参考 「賢帝」ハドリアヌスの暗部

 皇帝ハドリアヌスは五賢帝の一人であり、帝国の統治を安定させ、人物としてもすぐれた皇帝であったという評価が一般的である。ところが、当時のローマでは必ずしもそうはうけとらておらず、むしろ「暴君」ともされていたという。ハドリアヌスについては南川高志氏『ローマ五賢帝』で詳しく論じているが、まず、先代のトラヤヌスが、ハドリアヌスを養子として後継者に指名したことに疑義があるという。そのすべてを紹介できないが、トラヤヌスの未亡人とハドリアヌスが怪しい関係にあったという説さえあるらしい。南川氏が指摘するのは、トラヤヌスからハドリアヌスへの帝位継承が、養子縁組制というような慣行でスムーズに行われたことではない、ということである。詳細は同書をぜひご覧下さい。
 ハドリアヌスの帝位継承が決して順当ではなかったことは、その即位(117年)の直後に、新皇帝殺害の陰謀を企てたという理由で4人の元老院議員が一挙に処刑されるという事件がおこっている。この事件の真相も不明であるが、南川氏の「ハドリアヌス政権成立の真相」の節では、ハドリアヌスはトラヤヌスと同じくスペイン系の騎士階級の出身であり、その政権を支えたのはスペイン系新興勢力であったととらえ、4元老院処刑は旧勢力であったイタリア系元老院議員を排除したものではないか、と考えている。
 このような不透明な養子縁組と四元老院議員処刑事件で元老院議員やローマの民衆の疑惑と憎悪を招き、絶対的な権力を手にしていた晩年にはスペイン系勢力に厳しい手段でそれを抑えたため、当時は「暴君」と見られたのだった。<南川高志『ローマ五賢帝』1998 初刊 2014 講談社学術新書で再刊 p.124-156,176>

Episode 皇帝が愛した美少年

 皇帝ハドリアヌスが小アジアを旅していたとき、北部のビテュニア地方の町で美しい少年アンティノウスを目にとめ、その東方世界の巡幸に同行させた。しかし、130年にエジプトまで行ったとき、この少年はナイル川で溺死してしまった。ハドリアヌスはその時、女のように泣いたという。事故の原因はわからないが、人々はこの少年を神格化し、東方世界のいたるところでアンティノウスを祀る祭祀が行われ、その像も沢山造られた。ハドリアヌスは亡き恋人を記念してナイル川東岸にアンティノオポリスという新しい都市を建設した。<南川高志『前掲書』 p.162>

養子皇帝制への疑問

 美少年アンティオノスの死と共に、ハドリアヌス帝晩年の苦悩が始まった。ハドリアヌスがイェルサレムの地に新しい都市を建設し、しかもヤハウェ神殿の代わりにローマの最高神ユッピテル(ジュピター)の神殿を建立した事に対して、ユダヤ人が反発、第2次のユダヤ戦争が起こったのだ。この戦争は132~135年まで続き、ハドリアヌスのローマ軍は大軍を投じてようやく鎮圧することができたが、ローマ側の犠牲も大きかった。
 死期の迫ったハドリアヌスは実子はなく、後継者と目していた人物に早世されていたため、南フランス出身の執政官であったアントニヌスを養子としていたが、その経過も実に複雑怪奇なものがある。南川氏が単純な「養子皇帝制」なるものを否定する由縁である。<南川高志『前掲書』 p.164-176>
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書籍案内

青柳正規
『皇帝たちの都ローマ』
1992 中公新書

南川高志
『ローマ五賢帝――「輝ける世紀」の虚像と実像』
1998 初刊 2014 講談社学術文庫で再刊