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ユダヤ戦争

ローマ帝国の属州民となったユダヤ人は、1~2世紀に繰り返し解放戦争を戦った。しかし、いずれも鎮圧され、ユダヤ人の離散が始まった。

 ローマ時代のパレスチナは紀元6年からローマ帝国属州ユダヤエとして支配されていた。そのパレスティナで、1世紀後半から2世紀にかけて、ユダヤ人の激しい反ローマ闘争が起こった。

第1次ユダヤ戦争(66~74年)

 ローマの属州ユダヤエで、独自の民族宗教であるユダヤ教の信仰を続けていたユダヤ人は、ローマの支配に対する不満をつのらせ、66年の春に反乱を起こし、ユダヤ戦争が始まった。時の皇帝ネロは将軍ウェスパシアヌスを反乱鎮圧のために派遣した。ウェスパシアヌスはガリラヤ地方を反乱軍から奪回し、イェルサレムに迫った。その途中、本国で皇帝ネロが失脚し、69年7月にウェスパシアヌスは東方に駐在する軍隊の支持を受けて皇帝に就くこととなり、アレクサンドリアを経てローマに帰った。ユダヤ戦争の指揮を引き継いだその息子ティトウスはイェルサレムを7ヶ月にわたって包囲攻撃し、70年9月に陥落させた。
 反乱はその後も一部で続いたが、74年春に死海の南岸に近いマサダの反乱軍要塞が陥落し、終わりを告げた。このときのユダヤのローマに対する戦いの詳細は、フラウィス=ヨセフスという人の『ユダヤ戦記』に詳しく書き残している。
イェルサレムの陥落 70年3月、ティトゥスはイェルサレム包囲戦を開始した。ローマ軍は攻城機を使って5月までに2つの外壁を破壊したが第3の城壁に阻まれた。第3の城壁を壊して抜けたのはようやく9月だった。7ヶ月にわたる攻城戦のすえに、イェルサレムとその神殿は破壊され、住民は殺されるか、奴隷として売られるかということで終わった。ローマ軍兵士はイェルサレムのユダヤ教神殿から宝物を掠奪してローマに持ち帰り、ローマには勝利を記念する記念門に、兵士が神殿を掠奪する様を彫り込んでいる。<クリス・スカー/吉村忠典監修/矢羽野薫訳『ローマ帝国-地図で読む世界の歴史』1998 河出書房新社 p.56>

参考 ティトウスの凱旋門

 現在もローマに残されているティトウス帝の凱旋門には、70年9月にローマ軍がイェルサレムを破壊し、ヤハウェ神殿を掠奪した様子が彫刻されている。「この凱旋門は、帝国の権勢を示す永続的なシンボルであり、その彫刻はローマ支配に反抗した人々がたどる運命を、消すことなく思い起こさせるものだった。
ユダヤ戦争

イェルサレムのヤハウェ神殿を掠奪するローマ軍兵士
ローマ ティトウス帝凱旋門のレリーフ

(引用)71年6月、皇帝ウェスパシアヌスと息子のティトウスは、ユダヤ反乱の鎮圧を祝った。ティトウスが、前年の70年夏、イェルサレムを包囲して陥落させたのである。ローマ軍に容赦はなかった。ヘロデの大神殿は荒らされ、内部の神域、至聖所は掠奪された。聖器や金の犠牲台、七枝の大燭台(メノーラー)、銀のトランペット、律法(トーラー)の巻物がローマにもちさられて、町中にみせびらかされた。それから10年経った81年になって、その年にすでに崩御していたティトウス帝を称えて、中央広場の東の出入り口に凱旋門が建造されたが、そこに刻まれた彫刻によって、ユダヤ民族制圧という歓喜の瞬間は永遠に記憶にとどめられることになる(右図)。<クリストファー・ケリー/藤井崇訳『一冊でわかるローマ帝国』2010 岩波書店 p.12-13>
マサダの陥落 ローマ軍の将軍シルヴァは攻略にあたって包囲壁をめぐらし、マサダの西の腹に破城用の斜道を作った(その跡は現在も見ることができる)。やがて城壁の一部が破壊されると城砦を守るエレアザルは観念し、全員に集団自決を勧めた。こうして73年5月、戦士およびその家族たち960名は一団となって自決した。<フラヴィウス=ヨセフス『ユダヤ戦記』ちくま学芸文庫 7.421-436>

世界遺産 マサダの要塞

 ユダヤ戦争でイスラエルの“愛国者”が立て籠もり、最後までローマ軍に抵抗した要塞がマサダである。死海西岸にそびえる高さ約400mの台地上に遺跡が残されており、発掘調査の結果、ヘロデ王の離宮などの関連施設とともに、66~70年のユダヤ戦争でユダヤ側の最後の拠点であった城砦跡が調査され、2001年に世界遺産に登録された。砦ではユダヤ敗戦の後も、73年まで抵抗が続けられたという。  → UNESCO World Heritage Convention Masada

第2次ユダヤ戦争(131~135年)

 2世紀に入り、再びユダヤ人の反ローマ闘争が活発になった。ローマ皇帝ハドリアヌスは五賢帝の一人で膨張政策を改め、帝国の安定をはかっていたが、その晩年に至ってイェルサレムに自己の家名を付けた都市に衣替えし、ヤハウェ神殿を破壊してローマの神であるジュピター(ユピテル)の神殿を建設しようとした。このことはユダヤ人の怒りを買い、131年に第2回ユダヤ戦争といわれるユダヤ人の反ローマ闘争が再開された。
 この第2回ユダヤ戦争で反乱の先頭に立ったのは、バル=コクバ(星の子)とい呼ばれた力と人格に優れた人物であった。一説には、ローマがユダヤ人に対して割礼禁止令を出したことに対する反発であるとも言う。
 戦いはパレスチナ全土に広がり、一時はイェルサレムを占領して神殿を復興し、ローマからの解放を記念して貨幣も鋳造している。反乱は3年ほど持ちこたえたが、ハドリアヌスはユリウス=セヴェルスをブリテン島から呼び戻し、大軍をイェルサレムに派遣、装備に優れたローマ軍がイェルサレムを再び占領、反乱軍は掃討され、135年に指導者バル=コクバも捕らえられて処刑されて終わった。この出来事は五賢帝時代の汚点の一つとなり、ローマの衰退の始まりを示すものでもあった。<南川高志『ローマ五賢帝』1998 初刊 2014 講談社学術文庫で再刊 p.163-164>
 同時にこの戦争はパレスチナにおけるユダヤ人の最後の抵抗となった。ローマ帝国のもとでイェルサレムは再び破壊され、新しい市街地にはユダヤ人はいっさいの立ち入りを禁止され、ユダヤ人の多くは地中海各地に離散(ディアスポラ)していくこととなった。

Episode 「嘆きの壁」の由来

(引用)これは凄惨な敗戦であった。ユダヤは完全に破壊しつくされた。無数のユダヤ人が命を落としただけでなく、数知れぬユダヤ人が捕虜となり、奴隷として売られていった。その数が余りに多く、ユダヤ人奴隷市場はインフレを起こし、奴隷一人の値段は馬の飼い葉一回分であったとすら言われている。「アエリア・カピトリーナ」となって聖都エルサレムは消滅し、その地にユダヤ人が足を踏み入れることは死罪をもって禁じられた。ただ紀元四世紀に至ってようやく、年に一回、アブの月の九日(70年のエルサレム滅亡の日であり、135年のベタル陥落の日)にのみ、旧神殿の壁にすがって祈ることが許された(エルサレムのいわゆる「嘆きの壁」はここから由来する)。<佐藤研『聖書時代史 新約編』2003 岩波現代文庫 p.181>
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書籍案内

フラウィウス・ヨセフス
秦剛平訳
『ユダヤ戦記1』
Kindle版 ちくま学芸文庫

クリス・スカー
吉村忠典監修/矢羽野薫訳
『ローマ帝国
地図で読む世界の歴史』
1998 河出書房新社

クリストファー・ケリー
/藤井崇訳
『一冊でわかるローマ帝国』
2010 岩波書店

佐藤研
『聖書時代史 新約編』
2003 岩波現代文庫