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アリウス派

325年、ニケーア公会議でイエスの神性を否定して異端とされたキリスト教の一派。ローマで排除されゲルマン人に広がった。

 キリスト教がローマ領内で広がっていく過程で生まれた教義の一つで、アリウス(250頃~336)はアレクサンドリア教会の長老であった。彼は、神の本性はいかなる分割もありえないものであるから、キリストは神から放射されたもの(被造物)、したがって神に従属するものでなければならない。キリストの本性は、神聖ではあっても、神性をもつものではない、その本性は神の本性とは異質のものである、と主張した。つまり、平たく言うと、イエスはやっぱり人だった、ということ。

ニケーア公会議で異端とされる

 325年コンスタンティヌス大帝が主催してニケーア公会議が開催されると、アリウスはキリストは父なる神に従属するものであるという主張を崩さなかった。それに対してアタナシウスは、父なる神と子なるイエスは同質(ホモウーシス)であると主張し、両派は激論となった。しかし大勢はアタナシウスに傾き、ついにアリウスの説は異端であるとされ、コンスタンティヌス大帝はアリウスのローマ領からの追放を命令した。アタナシウスの説は「ニケーア信条」といわれてキリスト教の正統とされた。

参考 コンスタンティヌス大帝の変心

 もっとも、アリウス自身は、335年にコンスタンティヌス大帝によって追放処分が解除されている。それは、ニケーア公会議ではアリウスの説を否定したのだが、教父エウセビオスなど、アリウス支持派はまだ宮廷で大きな力を持っていたからであった。大帝自身も次第にアリウスの考えを認めるようになり、ついに追放処分解除としたのだった。337年、大帝が死の床で洗礼を受けたが、その洗礼を施したのもエウセビオスだった。このようにコンスタンティヌスの時にアタナシウス派が正統として確立したわけではなく、次のコンスタンティウス2世の時には逆にアタナシウスが追放されている。アタナシウス派が正式に正統とされるのは、381年のコンスタンティノープル公会議においてである。

ゲルマン人に布教される

 アリウス派は、コンスタンティヌス大帝の晩年に異端であることが取り消されたので、コンスタンティノープルのローマ帝国宮廷ではしばらくの間、優勢であった。
 しかし、381年に再び異端として認定されたため、ローマ領内での布教はできなくなり、主として北方のゲルマン人に布教されていった。一方のアタナシウス派の教義は三位一体説に発展していったが、その「父と子と聖霊は三つの面を持つが一体である」という教義は理解が困難であったのに対して、アリウス派の教義は神とイエスの関係をわかりやすく説明できたので、ゲルマン人に受け容れやすく、さらにゲルマン人の土俗的な信仰と合体して独特なキリスト教となっていく。
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