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キリスト教

イエスの教えを、使徒が継承発展させ、キリスト教団を組織、パウロなどが教義を体系化し、世界宗教に転化させ地中海世界に広がった。その後、西欧世界の精神世界を支配するに至り、東西分裂、教皇庁の分裂、宗教改革などを経て、なおも文化、社会、政治に強い影響力を保っている。

 ユダヤ教を母体としてイエスが始めた宗教。神の愛を説くイエスの教えは使徒によって広められ、イエスを救世主(キリスト)と信ずる人びとによって、キリスト教として体系づけられてローマ世界に広がり、ローマ帝国による厳しい弾圧にもかかわらず、民族、階級を超えた世界宗教に成長した。このようにキリスト教は現在多くの教派に分かれているが、それらを総合すれば、仏教イスラーム教とともに世界の三大宗教の一つとして現在も大きな影響力をもっている。キリスト教の2001年の推定宗教人口は約20億人。世界人口の約33%にあたる。(イスラーム教は12億、仏教は3.6億。ヒンドゥー教の方が多く、8.2億である。)

キリスト教の成立

 イエスが十字架に架けられた後、3日後に復活したことを信じ、キリスト(救世主を意味する)とあがめる宗教。その直後から少数の信者団体である原始キリスト教団が生まれた。はじめはユダヤ教の一分派としかとらえられなかったが、ペテロパウロ小アジアのユダヤ人らに広め、さらにローマに赴き伝道することによってローマ領内に広まった。特にパウロが、イエスを救世主としてその愛によって人が原罪から救済されると説いてから、単なるユダヤ人のための信仰ではなく、あらゆる人々の信仰を受ける「世界宗教」としてのキリスト教に変質した。皇帝崇拝を拒否したキリスト教徒はローマ帝国では迫害されたが、その間にも信仰はローマ領内に広がり、多くの信徒は地下墓坑である力タコンべで信仰を守った。

教義の統一と国教化

 また3世紀ごろまでには『新約聖書』がまとめられ、教義も調えられた。ローマ帝国の3世紀の危機を克服して、帝国支配の安定をはかるコンスタンティヌス帝は、313年にミラノ勅令を出して、ローマ帝国におけるキリスト教を公認し、それによってキリスト教に対する迫害は終わりを告げた。同時に、イエス死後数百年を経てその教えの理解にも違いが生じていたため、教義の統一がはかられ、325年にニケーア公会議を招集し、アタナシウス派三位一体説正統の教理と定めた。その後のローマではユリアヌス帝(背教者)がローマの神々への信仰を復活させたことがあったが、392年にテオドシウス帝がアタナシウス派のキリスト教の国教化し、他の宗教を禁止した。これによってアタナシウスはキリスト教は国家の正統教義として認められ、ローマ教会の権威は確立した。しかしまもなく395年にはローマ帝国は東西に分裂する。

キリスト教世界の分裂

 ローマ帝政末期までに地中海世界各地に教会が設けられ、ローマ、コンスタンティノープル、アレクサンドリア、イェルサレム、アンティオキアが五大管区に分けられ、それぞれ拠点の教会が五本山とされるようになった。しかし、地域的な信仰の違いはいずれを正統とするかによって対立が生じるようになった。その後もたびたび公会議が開催され、正統とされた三位一体説以外の多くの異端は排除された。ニケーア公会議で異端とされたアリウス派はローマ領では布教できず、ゲルマン人に広がり、さらに431年のエフェソス公会議で異端とされたネストリウス派は東方にひろがり、唐時代の中国に伝えられては景教と言われている。またエジプトやエチオピアでは古いキリスト教の信仰をとどめるコプト教会が守られている。
アウグスティヌス 東西分裂の以前から、西ローマ帝国の北辺には非キリスト教徒、あるいは非正統キリスト教徒のゲルマン人の活動が活発となり、帝国は深刻な危機にさらされていた。4世紀末に北アフリカのカルタゴに現れた教父アウグスティヌスは、青年期のマニ教への入信などの過ちを告白し、教会を現世における神の国と位置づけた。その思想は、ローマ=カトリック教会ローマ教皇を頂点とした教会の存在を理論づけるものであり、その理念によって西ローマ帝国が滅亡してもローマ教会が生き残ることができ、よりたしかな世界宗教としての存在となることができたと言える。
ゲルマン人への布教 ローマ教会は西ローマ帝国の滅亡後、保護者を失って危機に陥り、東方のコンスタンティノープル教会の下風におかれるが、ローマ教会はアリウス派の影響下にあったゲルマン人に対して三位一体説などのカトリック信仰の布教に努め、496年、フランク王国のクローヴィスの改宗に成功し、基盤を築いた。実質的な初代のローマ教皇とされるグレゴリウス1世は、特にベネディクト派の修道士をイギリスのアングロ=サクソン王国(七王国)に派遣してその強化に成功した。フランク王国との結びつきは、756年にピピンの寄進によって中部イタリアのラヴェンナ地方がローマ教会領となり、さらに800年に「カールの戴冠」をローマ教会で挙行したことで確立し、ゲルマン民族の封建社会とローマ=カトリック教会の結びついた西ヨーロッパ中世世界を成立させた。こうして西ヨーロッパではローマ=カトリック教会が絶大な精神上も世俗的にも力を持つようになる。
教会の東西分裂 一方東方のコンスタンティノープル教会は皇帝教皇主義をとるビザンツ帝国と一体となって存続し、8世紀の聖像崇拝問題を契機として、ローマ教会との対立を深め、最終的に1054年に分離する(教会の東西分離)。中世ではスラヴ世界でギリシア正教会として独自の発展を遂げていく。ギリシア正教は後にコンスタンティノープルがイスラーム教徒の手に落ちたため、その正統性はロシアに受け継がれロシア正教が生まれた。

カトリック教会の発展と動揺

 西ヨーロッパ世界では修道院運動で教義の純化に努めながらゲルマン諸国に浸透していったローマ=カトリック教会が、ローマ教皇を頂点とした聖職者階層制組織(ヒエラルキア)をつくりあげ、村落の隅々まで教会が作られ、社会に深く浸透した。
神聖ローマ帝国 9世紀にはローマ教皇を支えていたフランク王国が分裂し、政治的な混乱が生じたため、ローマ教会にも周辺の政治勢力の干渉が続いた。そのなかで、10世紀には東フランクのオットー1世が新たなローマ教会の保護者として現れ、962年にオットーの戴冠が行われて神聖ローマ帝国が成立した。オットー大帝は帝国教会政策を採り、教会を通じての統治を目指したため、ローマ教皇位は世俗の権力の下風に立つ傾向が強まった。

教会の腐敗と改革運動

 中世封建社会の中で、教会と修道院も封建領主化していたため、経済的に豊かな基盤を得て、次第に宗教者としての限度を超えた華美な生活を送るものもあらわれ、聖職が売買の対象となったり、聖職者の中には妻帯するものもあらわれるなど、腐敗が表面化するようになった。 → ローマ教皇の堕落
クリュニー修道院 そしてそれに対する反動として、10世紀にフランスで活動を開始したクリュニー修道院は、ベネディクト派の戒律を復活させ、清貧と厳格な規律を復活させて再び修道院運動を展開、そこから改革派の聖職者がヨーロッパ各地の教会に広がっていった。彼らは聖職売買と聖職者の妻帯を否定し、教会や修道院の粛正を進めた。
グレゴリウス改革と叙任権闘争 ローマ教皇の中にもその影響を受けて改革を標榜するものが現れ、特に1075年に教皇となったグレゴリウス7世聖職売買と聖職者の妻帯を厳格に否定して教会の粛正にあたった。これを「グレゴリウス改革」といい、さらに彼は皇帝以下の世俗の権力の聖職者叙任権を否定し、それに反発した神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世破門した。
カノッサの屈辱 窮地に立たされたハインリヒ4世はグレゴリウス7世に許しを請い、ようやく許されるというカノッサの屈辱の事件がおこった。こうしてローマ教皇と神聖ローマ皇帝の間の叙任権闘争が始まり、次第にローマ教皇権の優位が明確となって、1122年のヴォルムス協約で妥協が成立、ローマ教皇権の世俗権力からの優位が確立した。
異端の出現 この時代に教会と修道院は民衆の支持を受けてキリスト教信仰を深化させていった。民衆の中から自然発生的に救済を求める起こってきた。それはフランスでのカタリ派ワルド派など動きであったが、ローマ教会はこれらの運動を異端として取り締まるようになった。
十字軍運動  11世紀末にウルバヌス2世が提唱した十字軍運動は、当初は聖地奪回にも成功し、教皇の権威を高める上で大きな力となった。十字軍の開始を受けて教皇となったインノケンティウス3世のもとで、ローマ教皇権は最高潮に達した。
 しかし、その時期を頂点として教皇権力は次第に下降線をたどり、世俗の権力の介入を受けて教皇がローマとアヴィニヨンに分裂する教会大分裂(大シスマ)の事態となり、その権威は次第に低下する。

宗教改革、旧教・新教の対立

 ローマ教皇を頂点とした教会を絶対とする信仰のあり方に疑問が提出されるようになり、16世紀のルターの宗教改革によって、大きくカトリック(旧教)とプロテスタント(新教)に分裂した。プロテスタントにもさまざまな教義の違いがあり、多くの教派に分かれることとなった。
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ノートの参照
1章3節 キ.キリスト教の成立
5章1節 エ.ローマ=カトリック教会の成長
6章1節 ケ.教会の権威
8章3節 宗教改革
書籍案内

浅野順一編
『キリスト教概論』
1966 創文社