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公会議/宗教会議

公会議とはローマ帝国皇帝または教皇が主催、ローマ=カトリック教会の教義を決定する最高会議。古代では皇帝が召集するのが原則で、ニケーア公会議に始まり8回開催された。それ以降はカトリックでは公認されたものが21回開催されている。ただし、東方教会やプロテスタントでは古代の8回以外を公会議としては認めていない。なお宗教会議(教会会議)といわれる会議もあるが、正確には区別されるもので参加者、地域が限定された高位聖職者の会議を宗教会議(教会会議)という。教会大分裂(シスマ)となった15世紀には教皇の権威が低下すると、教皇よりも公会議が上位に立つという公会議至上主義が台頭する。

 キリスト教ローマ=カトリック教会において、宗教上の教義や教会法の規定を決定する最高議決機関を公会議としている。特に教義上の正統性を守り、異端を排除する、世界史上有名な会議が幾度か開催されている。公会議とは、ラテン語で concilium 、英語で council のことで、教会会議または総教会会議と訳されることもある。
 ただし、ギリシア正教では「全地公会議」と称し、第7回までしか認めていない。それは、この回までがローマ皇帝(東西分裂後はビザンツ皇帝)が主催したものであり、それ以降はローマ教皇が主催したものであるからである。同じように後にローマ教皇を批判してカトリック教会から分離したプロテスタント教会も8回以降の中世のローマ教皇が主催したものは公会議とは認めていない。

公会議と宗教会議の違い

 また高校教科書などでは、「宗教会議」と言われることもあり混用されているが、厳密には分けることが正しいという説明もあるので注意しよう。
  • 公会議は、「ローマ皇帝(第8回からは教皇)が主催し、全教区の枢機卿、司教、神学者などを集めて、教会の教義や規則などの重要事項についておこなう最高会議」
  • 宗教会議は「各地域の大司教や司教を中心に、教区の司祭や修道院長などがおこなう会議」のことで、教会会議ともいう。
と、分けて説明されている場合もある。これによれば、キリスト教(カトリック)世界全体の会議は「公会議」、地域的な教会の会議を「宗教会議、教会会議」と呼び分けている。<朝倉文市『修道院にみるヨーロッパの心』1996 世界史リブレット 山川出版社>

21回の公会議

 公会議はローマ=カトリック教会公認のものでは今まで21回開催されたことになっている。煩雑だが、厳密を期すため、公会議とされる21回を挙げてみよう。 注意 公会議と宗教会議は区別しよう  注意深く見ると、十字軍の派遣を決めたクレルモンでの会議が挙げられていない。どうやらこれは広く言えば公会議にはいるが厳密には「教会会議」あるいは「地方会議」と位置づけられているらしい。それ以外にも1409年のピサ公会議や1431年のバーゼル公会議というのもある。公会議と宗教会議はとちらでも良さそうなものだが、きちんと分けたほうがより正確である。ここでは、教会側の定めた21回を「公会議」とし、それ以外は「宗教会議」と表記することにし、クレルモン会議は「クレルモン宗教会議」とする。山川出版の詳説世界史でも、ニケーア、エフェソス、カルケドン、コンスタンツ、トリエントはいずれも「公会議」、クレルモンは「宗教会議」と分けている。

公会議至上主義(首位説)

 ローマ教皇の権威が動揺した中世末期、教会の教会大分裂を克服しようとして1414年~18年に開催されたコンスタンツ公会議は、公会議至上主義(首位説)を打ち出した。これはローマ=カトリック教会の最高権威は教皇ではなく、公会議にあるというものであった。コンスタンツ公会議で定められた公会議教令(1415年4月6日)は「いかなる地位・位階を持つ者であろうと、たとえ教皇位にある者も、この公会議に従う義務がある」と明確に示した。教皇と雖も公会議の決定には従わなければならないということんしてカトリック教会を立て直そうとした考えだった。

教皇権威の復活(教皇不謬説)

 コンスタンツ公会議は公会議を定期的に開催することを決めたが、実際にはそうはならなかった。それは教皇の地位が安定したことにおってその権威が復活し、教皇側の巻き返しが始まったことによる。さらに16世紀に宗教改革というカトリックの危機の時代となるとカトリック教会は教皇を中心に結束しようという動きが強まった。公会議はカトリック教会の対抗宗教改革のために開催され、その中から逆に「教皇不謬説」、つまり教皇は絶対誤ることはないという信念が形成されていった。そのような教皇権威の復活によって、教皇に絶対服従するイエズス会や、教皇や教会批判はすべて魔女の仕業として排撃するドミニコ会などが生まれてくる。
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