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テオドシウス帝

4世紀末のローマ帝国の皇帝。392年にキリスト教を国教とした。その死後、395年に帝国は東西に分裂した。

 テオドシウス帝は在位379~395年、ローマ帝国末期の皇帝。もとは属州ヒスパニア(スペイン)出身の軍人であったが、378年に皇帝ヴァレンスが西ゴート人とのアドリアノープルの戦いで敗死したために、急遽、軍隊司令官の一人だったテオドシウスが指名されて皇帝となった。
 はじめ、グラティアヌスとの共同統治であったが、ただちに西ゴート人に対する反撃を開始、382年には西ゴートとの同盟条約を締結して和解に持ち込むなどの外交で成功を収め、主導権を握って383年にはグラティアヌスを暗殺した。その後、マクシムスが西の皇帝を称したのに対し、テオドシウスは東の皇帝としてコンスタンティノープルを拠点とし、388年にはマクシムスの軍を破り、統一支配権を再建した。

キリスト教の国教化

 キリスト教は、コンスタンティヌス帝の313年にミラノ勅令公認され、帝国内に広く浸透していた。同時に、様々な教義が生まれたため、その統一の必要が生じ、325年にニケーア公会議が召集され、アタナシウス派三位一体説正統の教義とされた。しかし、その後、コンスタンティヌス帝自身がアリウス派を認め、アタナシウスが追放されるなど、混乱が続いていた。さらにアリウス派以外の有力な異端も生まれていた。
 テオドシウス帝は381年に第1コンスタンティノープル公会議を召集し、アタナシウスの教義を補強した三位一体説を正統教義として確認した。さらに392年異教徒禁止令を出し、アタナシウス派キリスト教を事実上の国教とする措置をとった。これによって三位一体説のキリスト教信仰がローマ帝国と結びついて権威ある国家宗教とされることとなった。

Episode テオドシウスの懺悔

 テオドシウス帝は390年、ギリシアのテサロニケで暴動を起こした住民7000人を殺害した。ミラノ司教アンブロシウスは、皇帝がその罪を懺悔しなければ聖餐式(キリスト教の重要な儀式)を許さないと申し渡す。やむなくテオドシウスはアンブロシウスに従ってミラノの教会で懺悔し、その後その影響を強く受けるようになった。その結果が、キリスト教国教化につながる。なおアンブロシウスは、教父アウグスティヌスの師としても有名。<J.M.ロバーツ『世界の歴史3 古代ローマとキリスト教』1976 創元社 p.187>

ローマ帝国の東西分裂

 テオドシウス帝はローマ帝国を再統一したが、現実はすでに広大な帝国を一元的に支配することは困難になっていた。395年、その死にあたり、息子のホノリウス(16歳)を西ローマ皇帝に、同アルカディウス(18歳)に東ローマ皇帝に指名し、ローマの東西分裂が確定した。テオドシウス自身はローマには一度も行ったことがなく、あくまで中心は東のコンスタンティノープルにおいて統治していたが、この措置によってローマ帝国はコンスタンティノープルを都とする東ローマ帝国と、ローマその他の西方の都市を都とする西ローマ帝国に分離した。(ただし、このような言い方がされるようになったのは後のことで、当時まだ国制上は一つの国家と考えられていた。)