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キリスト教会の東西分裂

キリスト教教会が、ローマ教会とコンスタンティノープル教会が8世紀の聖像禁止令をめぐって対立が始まり、1054年に分離が確定。ローマ=カトリック教会とビザンツ教会は独自の道を歩む。

 キリスト教の世界において、当初は互いに五本山のなかの一つであったローマ教会(西方教会)とコンスタンティノープル教会(東方教会)は教会の首位権(首位教会としての権利)をめぐって争うようになった。両者の対立は、726年のビザンツ帝国皇帝レオ3世の聖像禁止令によって深刻となり、ローマ教皇フランク王国と結んだことによって決定的となった。ビザンツ帝国での製造禁止のうごきは、9世紀には後退し、イコンがつくられるようになるが、東西教会の対立は解消されず、教会統一の理想は遠のいた。 → 教会

東西教会の相互破門

 1054年7月16日、ローマ教皇レオ9世は、コンスタンティノープル総大司教ミカエル=ケルラリオスとその一門に対し、破門を宣告した。それをうけた相手側も、レオ9世を破門とし、東西教会の決裂は決定的となった。
 コンスタンティノープル総大司教ミカエル=ケルラリオスは熱狂的な反西方論者で、コンスタンティノープルに残っていたラテン教会(ローマ=カトリック教会)をすべて閉鎖し、ラテン教会の典礼を激しくしたが、その内容は、ミサに種なしパンを使うかどうかといった細かな点での論争であった。
 両者の対立の直接的要因は、そのころ南イタリアに侵入したノルマン人勢力を撃退しようとして、教皇レオ9世が自ら出陣したことだった。レオ9世はノルマン軍に敗れ、1053年7月に捕虜となってしまったが、このローマ教皇の南イタリア解放の試みに対して、南イタリアの領有権を主張していたビザンツ帝国が反発したのだった。<マックスウエルースチュアート『ローマ教皇歴代誌』1999 創元社 p.103-105>

東西教会の違い

 両者は同じキリスト教であり、『聖書』を基本の経典とし、三位一体説を理念とすることでは同じではあるが、それぞれ別個な教会組織と信仰内容、典礼(儀式の形式)を発展させていった。ローマ教会は、西ヨーロッパを中心に「ローマ=カトリック教会」として、コンスタンティノープル教会は、ギリシアを中心に東ヨーロッパ、ロシアに広がり「ギリシア正教会」として発展していく。
 もっとも重要な相違点はその首長の立場である。ローマ=カトリック教会ではその首長であるローマ教皇は、俗界の首長である神聖ローマ帝国皇帝とは別に存在し、正続が分離し、叙任権闘争のようにしばしば対立しているが、東方教会及びギリシア正教会では皇帝教皇主義の原則が維持され、世俗の最高権力者である皇帝は同時に聖界の最高指導者として大司教以下の聖職者任免権を持ち続けた。
 その他の違いは、教義内容よりも、むしろ様々な信仰儀礼、礼拝の仕方や儀式の執り行い方の手順の違いなど、形式的な違いであった。

Episode 900年目の和解

 1054年に決裂し、その後東西の教会は対立を続ける。東方教会がセルジューク=トルコやオスマン=トルコの脅威を受けた時に西方教会に歩み寄り、和解の動きは出たが、結局は和解は成立しなかった。両者の和解が成立したのはなんと9百年以上たった現代の1965年。この年、教皇パウルス6世と総主教アテナゴラスは「互いを正当に認め合い赦免し合う」ことを合意、和解への道が切り開かれた。もちろん、両者の実質的な合同は行われていない。<『ローマ教皇』「知の再発見」双書(創元社)による。>
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第6章1節 オ.カール大帝
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『ローマ教皇』
創元社・双書知の再発見